百川という男(桓武帝+藤原百川)
式家八男、藤原百川。
短い。
***
「あ」
思わず山部は足を止めた。向かいからやってくる痩躯の男、藤原百川を視界に認めたからだ。黒ずくめの服装に、冷淡で端正な顔立ち。五歳上の藤原式家の彼を、正直、山部は今一理解できないでいた。
あちらもこっちを見つけたらしい。ほとんど表情を変えないまま、こちらを見据えてやってくる。
それが。ほんの一瞬の事だった。
百川の足元が、少しだけふらついた。ように見えた。
それと同時に、百川が手に持っていた書類を「手から取り落とす」。
「お・・・っと、これは山部親王、早速の参内か」
「ああ、父上に呼び出されてな。・・・大丈夫か、百川。ふらついたように見えたが」
屈んで百川が書類を拾う。遠くに飛んだ一枚を取って渡すと、皇族がそんなことするもんじゃないぞ、とたしなめられた。平坦な声音、整いすぎている顔立ちと相まって、時々人形のように見える。
「それはあんたの幻覚だ。むしろ、最近体調なんて良すぎて気持ち悪いくらいで」
が、口を開けば相変わらずの捻くれた物言いである。皇太子である山部にも容赦はない。
「・・・そうか?ならいいのだが。で、お前は一体何を」
「書類の提出だ。あいにく俺の用事先は中務省だからご一緒はできないが」
「いや、構わないんだ。ただ・・・・・」
言うか言うまいか迷って言葉を濁すと、はっきり言え、と百川の黒い瞳が脅しかけてきた。
「あまり、無理はするんじゃないぞ」
「・・・・別に、無理などしてない」
では、と軽く会釈をして百川が脇を通り抜けていく、その後姿を見て、思わず山部は溜め息をつくのだった。
アイツ。一体いつから寝てないのだろうか。
確かにさまざまな役職を兼任している百川が、公事に忙殺されるのは分かる。そして、疲れによる顔色の悪さ――元々そんなに血色のいい男ではないが――、それを隠すために、化粧をしているという事も、山部には分かりきっていた。
恐らくさっき彼が書類を放り投げた―――落としたふりをしたのは、ふらついて体勢を崩しそうになったことのカムフラージュの為だろう。低い姿勢になっても怪しまれない為の。
でも。
もう少し、他に仕事を割り振ればいいのに。というよりは、
「・・・もう少し、他人ってものを信用すればいいものを」
山部はぼそりと呟く。以前、彼の兄良継が言っていたことが、ふと思い出された。
―――あの子は、基本的に誰も信じない子だよ。
―――仕事だって誰かに任せて失敗されるよりは、自分でやった方が良いって考えてるし。
―――八歳で長兄が処刑されてるからねぇ。俺もたまちゃんもすぐ流罪になったし、ちっちゃい頃から一人だったから・・・
740年、藤原広嗣の乱。藤原式家の嫡男広嗣が、時の権力者橘諸兄に対して起こしたクーデターだが、結果は大敗に終わり、式家一族の多くが処分されたという。その頃まだ山部は生まれて間もなかったから良く知っている訳ではないが、その後いろいろと聞いた話だと、どうも現在の式家一族がやけに官位が低いのはどうもそのあたりが原因らしい。
兄弟のほとんどが流刑か死刑に処され、周囲から冷遇されながら過ごした幼少期。あのように、頑ななまでに他を拒む気持ちは分からないでもないが、それでも。
「あそこまで、背負い込まなくたってもなぁ…」
白粉で顔色をごまかしているつもりなのだろうが、やはり全身から疲労している感じが漂っているし、そもそも、既に山部の中では「百川が公式行事でもないのに化粧をしている=具合が悪いのを隠している」というのが出来上がってしまっている。むしろ隠していることが真実を伝えているんだがなぁ、とは思うが、それを本人に言った所でどうせ全力で否定されて終わりだ。後でそっと良継にでも伝えておこう、と山部は思い起こす。きっと良継なら、強制的にでも彼を休ませることができるだろうから。
「おーい、そこにいるのは山部親王じゃない?・・・ほぉら、当たりだ」
後ろから、奇妙に陽気な声が聞こえてくる。噂をすればだ。
「あぁ、丁度いいところに来た。良継、頼みがあるんだ」
「はいな、何だろう。無茶振りじゃなきゃ承るよ」
山部は振り返り、やってくる良継にどう説得させようか考え始めていた。