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毒されて、

 

 桂太郎が内大臣に送り込まれるときの話。でも太郎は自分を一人の政治家として山縣閣下に認めてもらいたかったのかな、とも思う今日この頃。何か一周回って太郎が可哀そうです。

 

 

 

***

 

 嘘だ。こんな、おかしい。有り得ない。東京駅に降り立ってすぐ首相官邸に向かった桂を待ち受けていたのは、耳を疑うような内示だった。

「閣下、そんな、俺……」

「そうだな、丁度いいじゃないか。俺は残念だが陸軍元帥を降りる訳にはいかないし、お前も政界に生きるならば、内大臣も一度くらいは経験しておくべきだろう」

  思惑を秘めてベルリンへ向かおうとした直後の、今上崩御による帰還命令。2度目の内閣を手放した後、存外長く続いた西園寺の内閣が倒れた後の布石のためだったはずなのに、まさか、こんな。

  だが、桂太郎は深々と、誰よりも心得ていた。この人のオーダーには、誰も口を出せないのだと。知っていたのに。掴んだ首相の座に目がくらみ、すっかりと頭から抜け落ちていたのだ。

  長い睫毛を伏せ、はにかんでいるようにも見えるいつも通りの笑みではない。今桂に向けられているのは、正しく獲物をなぶる捕食者の笑みだ。

  山縣有朋。桂の恩人であり、上官であり、想い人であり、――たった今、澱みない憎悪をこの胸に突き立ててきた、長州閥の最高権力者の1人である。それを迂闊にも敵に回してしまったことを、桂は全力で後悔し始めていた。

 

  ある時からやたら山縣と政治意見が対立するようになり、気が付くと疎遠になりがちだったのは確かだが、それを政治という場だけでの話だと思っていたのはこちらだけだったのだろうか。抱き締めると腕の中にすっぽりと収まる山縣が可愛らしくて、気持ちを頂けないのは承知の上、せめて丁寧に、丹念に、愛させてもらっていたのはほんの一月ほど前の話だというのに。

  何がおかしかったのか。そんなことは分かっている。政党嫌いの山縣は、議会を利用して政治を進めようとする桂のやり方をよく非難していた。

『議会、政党などを頼るなど何を考えているのだよ』

『閣下、今まで通りじゃ駄目なのです。議会が反対したら我らは動けないんですから』

『そんなもの、裏から叩き潰してしまえばいいだろう』

『それでできるのは、外野から妨害することだけなんです、閣下――』

  でもまさか。ここまで、政敵に対する時の表情を浮かべられるまで、憎まれているとは思わなかったのだ。こんな短い間に何がここまで山縣を煽ったのか。分からない。全く分からないが、ただ一つ。

「西園寺殿…」

  そうじゃないかとは薄々感づいていたが。やはりこの男の存在が関係していない訳はないだろう。

  西園寺公望。この蜘蛛の糸が張り巡らされたような罠だらけの政界を、特に後ろ楯も持たずに悠々と闊歩する唯一の公家出身の男。山縣の後ろに佇んで静かに顔を伏せているこの公卿の兄、徳大寺実則は確か前内大臣兼侍従長だったはずだ。今上の崩御に伴って辞職した彼のポストは空いたままであり、政界にほとんど関わりのないその席に気に入らない相手を押し込めてしまおうという考え。それを公望は思い付いてそっと提言したのだろう。例えば、閨なんかで―――。

  ビシッと、視界に亀裂が入ったように感ぜられた。かつて、太郎、と暖かく向けられた山縣の眼差しに、今や容赦など欠片もなく、鋭く冴えた蒼の隻眼がただこちらを艶然と見つめているだけである。

 呼び掛けに、西園寺が顔を上げた。どうして、お前が。藩閥派と政党派、互いに立場は違えど一個人としては親しくしていたのに。そう目で訴えかけると、それとは分からぬよう、だが確かに、西園寺は困ったような笑みを浮かべた。

『私は何も、吹き込んではいませんよ』

  声には出さず唇だけで西園寺が言う。隠し事はすれど嘘をつく男ではないはずだ。となると、吹き込んではいないというのは、つまり。

  山縣が自ら求めたのだ。西園寺を。そして、彼の方策を。求められたままに答えただけ。そう言いたげな眼鏡の奥の紫の瞳が、からかうように細められた。

「……何故、そんなに俺が、憎いですか」

  ここで逆上しては相手の思う壺。そんなの分かっている。自分がずっと側で見、それをさせてきたのだ。でも止まらなかった。何で。どうして。

「俺は、貴方に尽くしてきたのに。少し調子に乗ってしまったくらいで、予告もなく切り捨てられるんですか…!」

  憎しみや寂寥、嫉妬がない交ぜになって桂の理性を灼いた。どうして。ひたすらそれだけが胸に沸き上がり、衝動のまま叫ばせる。

「何を言う。俺はお前の実力を認めているのだよ。だから、独り立ちするお前に餞として華々しい席を用意したのではないか。それに、新しい帝をお支えするこの大役に、俺が自信を持って推挙できるのはお前しかいないのだよ、太郎」

  仄暗い優美さを纏い、しゃあしゃあと山縣が笑う。喩うならば、まるで鈴蘭か鳥兜のように。全てを魅了してやまない毒牙に、今まで自分が掛けてきたのと同じように今度は自分が掛けられようとしていた。

  駄目だ。毒されるな。いくらそう自分に言い聞かせても止められない。淡い金髪に縁取られた白皙の中で蒼の瞳だけがこちらを見つめている。底無しの沼に引きずり込まれ、とうとう桂は、全てを諦めた。

「今、新帝は大変なお嘆きの最中に1人居られる。近々正式な任命の儀が執り行われるだろうが、それを待たなくていい。今日にでも参内し、ご機嫌を伺い申し上げるのがよいだろう」

「そう、ですね…」

  足元が崩れていくかのような錯覚を催すほどの敗北感、諦念。それと同時に、再び染みてくる憧憬と恐怖。失念していた。第一次西園寺内閣は、山縣に毒殺されたとさえ囁かれているということを。

 遠い京の別荘からでさえ内閣をも潰せのるだ。況んや己の身一つをや。逆らえない。抗えない。この致死手前の衝撃を癒せるなら、宮内に引きこもることすらアリかな、とさえ、思えてしまう。

  見ると、至極満足げに、美しく、山縣は笑んでいた。だがその瞳は、こちらが早々に敗けを認めたことを意外だなどと思ってはいまい。一度敵と認めた相手にはどこまでも執念深い人なのだ。降参の白旗をかざしても尚、それを笑みながら踏みにじる。今や桂に退路は無かった。

  せめて。顔だけでも気丈に振る舞わねば。桂は顔を上げ、震える手を隠し胸を張る。

「立派にお役目、務めさせていただきますよ。この太郎、決して閣下のお顔に泥を塗るような真似は致しません」

  言いながら、泣きそうだった。そして憎かった。山縣が。西園寺が。何より、自分が。このまま正気を保っていられる自信がなくて、一度山縣の目を見、足を揃えて陸軍式に敬礼してから、そのまま身を翻して部屋を出る。

  冷たい廊下。ここはどこだ、ああ、首相官邸か。これから俺は参内するんだよな。とりとめもなく現実を追い出すための無駄な思考を重ねながら、桂は歩き出した。

 事実上の山縣閥からの追放。これで組閣しろなどと言われないだけまだマシだったのかもしれない。それが最後の優しさだったのかな、と考えて、そんな甘い訳ないか、とすぐに打ち消した。

 あの人は裏切りを嫌う。幼い頃の経験に起因しているらしいと聞いたことがあったが、余りそこら辺については語りたがらなかったっけ。裏切り者に容赦をしない苛烈な面にも憧れてたんだよな、なんて思い返して、その裏切り者に自分は成り下がってしまったのだと言うことを改めて自覚した。

  周囲が、まるで奈落だ。たった一人、繋がりが途切れただけだと言うのに。何も失ってなどいないのに、じゃあこの喪失感は何だ。

「何なんだ、全く」

  分からない。分からないし、分からない方がいいんじゃないかと思い直した。もし分かってしまったら、今度こそ俺は、理性を飛ばして何をするか分かったもんじゃない。

 

 無理やり縛り上げてどうこうするとか、そんなことまでしてしまいそうな気がする。

 

  後悔だけしていよう。ともすると簡単に暴発してしまいそうな自分になんとかそう言い聞かせながら、桂は首相官邸を後にした。

 

 

 

 

*****

 

 

 ぴっと背筋を伸ばして退室していった桂からは、ありありと彼の感情が伺えた。私もああいう風に情熱的になれたらな。以前、物事への執着が無さすぎると紙面で評された時のことを思い出しながら、西園寺は目の前の華奢な背を見つめた。

  つまるところ、孤独なのだ。この山縣有朋という男は。陸軍元帥の称号の元、帝に絶対の忠誠を誓いながらもそれを冒涜するかの如くに絶大な権力を振るう。その支配欲は不安の現れ。何についてのか。人が、離れていくことについてのか。そうかもしれない。

  きっと同じ権力でも、山縣は自身のみが持ち、自身についてのみ行使するような種のものは好まないのだろう。彼は権力を欲しがる。だが、専制君主になりたいのではないのだ。そこまでして誰かにそばにいて欲しいと願いながらも、そこまでしないと誰もそばにはいてくれまい、と他人を疑う。そんなぼろぼろの、矛盾だらけの彼を、西園寺は気に入っていた。

「満足しましたか、閣下」

  ゆっくりとした口調で、大して感情を込めずに言葉を放り出す。最後の閣下、に少しアクセントを置いて。フランス語でもいいかと思ったが、そういえば陸軍はやたらとドイツ語話者が多いんだったなと思い出して、やめた。

「…満足も何も」

  その背から、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな呟きが返ってくる。意外にへこんでるのか。西園寺が少し目を見開いたその瞬間。

  とさ。

「え?」

  振り返った山縣が。こちらに寄り添ってきた。体を預け、額を西園寺のアスコットタイにつけ、顔を伏せる。

「山縣さん…」

「………。」

  何なんだろう。暫く考え、やがて、ああ、甘えたいのか、と気付いた。そうか。この人は。この、孤独な元帥は。

  上着の合わせを留めている腰のリボンを掴まれた。ぎゅう、と握っているのは分かるが、そこで抱きついてこない辺りがやはり彼らしい。なんとも不思議な感覚だった。あの、山縣が。いつも相手と対等以上の関係でないと気が済まないらしい山縣が、今確かに、甘えようとしている。

  まるで懐かない猫。相手を打ちのめしながら自身も深々と抉るような傷を負っていた山縣が、何だか無性に、愛しく思えた。

  意地っ張りで人間不信気味な猫は、どうもお膳立てが無ければ甘えることすらできないらしい。いいでしょう。おいでなさい。手負いの山縣の背に、西園寺は腕を回した。

「公、望…っ」

  一瞬竦む身体。だけど離さない。力のまま引き寄せ、腕の中に収める。

  何も言わず、ただ抱き締めた。髪を梳き、落ち着かせるように。するとこわごわと固まっていた身体がそのうちそっと緩み、やがてもたれ掛かってきた。

「……俺は、間違ったことなどしていない」

  ぼそりと。自分より少し低い位置にある口から、唐突にそう零れた。

「俺は、俺は……。何も悪くなど、ないのだよ」

  山縣が顔を上げる。金に縁取られた宝石のような蒼。プルシアンブルー。ターンブルブルー。そんな普遍的な名前では定義できないような至玉が、今は不安げに揺れていた。

  全てを見透かすような強い瞳。そんなものはどこにもない。ああ、これがこの人の弱さなのか。そう悟った瞬間、衝動的に西園寺は、山縣の唇を奪っていた。

  狂おしいほどの勢い。愛だとか恋だとか、そんな綺麗なものではない。ただ単純に。傷を癒すように。やがて大人しくなった山縣に、西園寺は唇を離す。繰り返し目を合わせた先で、溶けた蒼が誘惑するように崩れた。

「……山縣さん」

「有朋と、呼んで」

  今度は向こうから。背伸びしているのか苦しそうだったので、腰を支えてやりながらゆっくりと応接用のソファーに誘導してやった。

「それは、今だけですか」

  己の中の暴力的な情熱に少し驚きながら問い返す。倒した山縣が、睫毛を伏せた。

「いや、望むのならいつでも」

「私が公家で、興味はないにせよ政友会に属していても」

「お前一個人の、話なのだよ」

  答える喉元に指を滑らせ、羽織に散る紐を外してからネクタイに指を掛けた。期待なのか後悔なのか、山縣の表情が一瞬強張る。

「それは、嬉しい限りです」

  そっと髪の一房を取り、口づけた。仄かにコロンが香る耳元、流れるように痕を残す。

「きんも、ち…」

  上擦る声。高鳴りを隠せない自分。浅ましいな。そんな声はとうに掻き消した。愚かな行為に没頭しながら、西園寺は身を起こす。見下ろした山縣は、悪魔のように美しかった。

「有朋さん。次は私がお相手を務めましょう。飽きてしまったら捨てていただいて構いません。だからそれまでは、どうぞ私の腕の中で」

  世辞や口説などではなかった。たとえ先程の桂のようにいつか切り捨てられようとも。それまではこちらを見てほしい。我ながら子供のようだとひとつ笑い、また唇を重ねる。そして、理性を少し外に追いやり、その後は、もう。

 

  これで私もこの毒にやられてしまったのだな。きっと抜けるときには壮絶な痛みが伴うのだろう。だがいい。何人に愚かと言われようとも。最初に殿上から地下へ降りたときに決めたのだ、もう何も厭うまいと―――。焼け残った理性の一部でそんなことを考えながら、西園寺は藩閥の巨頭を相手取り、昼と午後のあわいへと溺れていった。

 

 

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