top of page

聞いたってや、兄さん

 

とある兄弟。

 

 

 

***

 

 

 御所の長い廊下。横から日の光を受けながら歩いていた桓武帝――山部親王は、向かいに人影を見つけた。音もなく、やってくる。

 姿形、というよりは雰囲気で分かった。あの独特の、人を引き付ける仄暗い雰囲気。そして、いつものように山部は顔をしかめる。あいつ、またか。

 互いに顔が見えるくらいにまで距離が狭まる。口許に淡く笑みを浮かべて、長い髪を下した早良親王が、軽く会釈してきた。

「これはこれは、兄さん、もとい天皇陛下。ご機嫌麗しゅうございますやろか」

「お前のせいで気鬱だらけだ。全く、もう身分は皇太子なのだから、いい加減―――」

「結髪しろ」

「え・・・」

 言葉を遮られ、繋げられた。言おうと思ったことをそのまま。とはいっても、すでに早良自身側は言われ過ぎていて予想がついていたのだろうが。

 にこり、と早良が笑う。

「て、言いたいんやろ?知っとうよ。会う度に言いはられおすし」

「分かっているのなら実行したらどうだ」

 少し、険を含んだような声になってしまった。ここは魑魅魍魎渦巻く宮廷、いくら自分が最高権力者だとしても、兄弟仲が悪い、などという噂が立ったら面倒なことになる。誰かが片方に悪知恵を吹き込み、謀反を起こさせ・・・。父帝の時代にあったようなそんな潰し合いは御免だった。気を付けねば。

 全く気にする様子もなく、早良がくるり、と覗き込んでくる。山部の方が少し早良よりも背が高いので、自然、上目遣いを向けられた。・・・母に似た、端正な顔である。

「兄さん、これからお暇どすか?俺の部屋の庭の桜、今が丁度満開やさかい、たまには二人で話すんもええかなぁ、と思うたんやけど」

「・・・行こう。ただ、一つ用事を終わらせてからな」

「そら良かった。ぜひぜひ、お越しやす」

 柔和に笑んで通り過ぎる弟。その際にふ、と少し皮肉気に笑われたのは気のせいだったのだろうか。どこか甘さを含む弟の声がまだ耳に残っているような気がして、思わず山部は頭を振った。

 

 

 

 

「・・・安殿ちゃんのとこ、行ってはったんやろ?」

「は?」

 後ろ手で御簾をくぐった山部は、開口一番そう告げてきた早良に、口から出るに任せて聞き返した。何故分かったのだろうか。

 庭に面した縁側に立っていた早良が、こちらを振り向いた。ふーっ、と息を吐きながら冠を脱ぎ捨てる。御簾を吹き抜ける風に遊ぶ茶色の髪を掻き上げて、だって他にあらへんやん、と早良は続けた。

「元々内向的な子ぉやったし、まぁ、それが可愛ぇのやけどな・・・。兄さん、ちゅうよりは俺に似とる気がして、心配え」

「・・・それは、な」

 実を言えば、それも山部の頭を悩ませる種の一つだった。思わず黙る。

 何を考えているか分からない癖に、思考は冴えていて鋭い。そんな13歳年下の弟には昔から意地を張ったところで無駄だったな、と山部は縁側に歩み寄った。確かに、庭の桜が見事に咲き誇っている。一足早く芽吹いてしまったらしい鮮やかな緑の新芽が覗いているのが、また美しかった。

 

 もうじき十にもなろうかという嫡男の安殿――安殿親王、のちに小殿親王と改名する、次代の平城天皇だが――は、早良の言う通りひどく内向的で、殆ど人に対して口を開かない。良く言えば大人びている、悪く言えば閉鎖的。そんな息子は、非常に賢くはあるのだが何せ病弱で、今しがた訪ねてきたのも、熱を出して寝込んでいる、と言うのを聞いての見舞いの為だった。

 

 は、と我に返る。見逃していた。

「・・・というか。自室だからって冠を脱ぐなと言ってるだろう」

「別にええやんか。どうせここには、俺と兄さんしかおぉへんのやし。・・・まぁ、帝の御前、ちゅう風にこの場を定義しぃはるんやったら、失礼極まりのうのやろうけど。八虐やったら謀反決定どすな」

それとも、と早良がにやりと笑う。

「冠脱ぐのは、恥もじい(恥ずかしい)事やって、なぁ?まさか兄さん、わてら“兄弟”やってのに、気にしてはるん?」

「ばっ・・・か、そんな訳ないだろう!」

「ほんまえ?俺ん兄さんは堅物でなぁ、冗談言うても真に受けて、しかもすぐに顔に出ぇはるんよ」

 意地の悪い笑みを浮かべながら、ゆったりとした京ことばで語る早良は、軽く屈むと捨てた冠を拾った。軽く手で髪を梳いて、再び被りなおす。やはり結髪する気はないのだろうが、露頂を避けてくれただけでも僥倖だ。平安貴族にとって冠を脱がされるのは、何よりも激しい屈辱となる。聞けば還俗する前寺にいた頃も烏帽子を嫌がり、一日をほぼ何も被らない姿で過ごしていたらしい。いくら父帝の命に従っての事だとは言えど、一応立太子された身なのだから、山部的にはもう少し自覚を持ってもらいたいところである。

 溜息をつくと、あはは、と早良が明るく笑った。

「せやけどな、兄さん。こないにして御所中うろうろしてはる帝も、どうかと思うで。普通おぉへん。皆御簾ん中に閉じこもってはって。巷じゃ“実務型天皇”なんて言われとるようやけど、貴族どもがまたええ顔せんよ?」

「それはだな・・・・じっと座ってるだけというのは、性に合わない」

「知っとる。昔っから兄さんは、馬駆ってどこへでも行ってはったさかいなぁ。・・・せや、兄さん。一つ言いたいことがあるんやけど」

 ようお聞きやす、と、やけにその声が真剣だったものだから、山部は何だ、と早良の顔を見た。

 色素の薄い茶色の瞳が、こちらを見てくる。

「ちゃんと、言いや」

「何が」

「俺が、邪魔んなったら」

「は・・・・?」

 何を言い出すのだろうか。

 ふい、と早良が顔をそらす。

「俺は嫌やぞ。いきなりありもせん噂立てられて、失脚させられんのは。・・・兄さんが俺より、安殿ちゃんこと立太子させたがっとんのは知っとる」

 どきり、と、胸が締め付けられた。別に、今この時点で弟の失脚を考えていたわけではないが、できる事なら、息子を皇太子としたい、と考えていたのは確かだ。だがしかし、それはゆくゆくの話で・・・ゆくゆく?どういう意味だ、それは。

 動揺を顔に出さないように気を張る。それを見た早良が無表情に続けた。

「せやから、俺は別に、こんな地位はどうでもええ。帝にも興味はおへん。やから・・・・せやから」

 きっぱりと見据えられる。眩しいほど、直線的な視線で。

「ちゃんとお言いやす。そしたら俺は、死ぬなり、発狂するなりして、こんな座ぁは降りたるわ」

「何を・・・馬鹿な。そんな訳、無いだろう。お前は皇太子だとかいう以前に、俺の、同母弟なんだ」

 その視線に耐えながら、何とか言い切る。そう、そのはずだ。母にも言われたように。兄弟二人で国を盛り立てていくと、こいつを還俗させた時だって、そう誓ったんだ。

 

何だったんだ。さっきのは。

・・・疲れているのかもしれないな。

 

 ふと、早良の視線が緩む。穏やかな笑みに戻った早良は、ならええんどすけど、と一言だけいうと、腕をかかげて伸びをした。

「あー、兄さん、今日はほんまにええ天気やわ。京の春は長閑とかゆう以前にもっそい荒れるさかいなぁ」

「・・・風流と言うだけでもないからな」

 話を無理に切り上げるように、明るい声で早良が言う。卑怯だとは思ったが、山部もそれに便乗させてもらうことにした。

 縁側、御所の外の様子が見える。朝のうちから開かれていた市も、にぎわっているようだ。

 

 やっとのことで、奈良の仏教勢力と政治を切り離すことができて。

 水面下でくすぶっている貴族たちを従わせることができて。

 病弱な息子のことなど、まだまだ懸念は多いが。

 それでも、山部――桓武帝にとっては、まあまあそこそこのものが、程よく順調に動き出しているように思えた。

 

「この桜のように・・・国が、栄えてくれれば良いな」

「・・・・せやね」

 二人ならんで、しばし桜に見入った。

 そのうち来る悲劇など、微塵も感じさせぬような、平和な日だった。

 

 

 

 

 兄が、仕事があるからと去っていった。お気張りやっしゃ、と手を振って見送った早良親王は、その手を中途半端に下ろしたまま、笑顔を吹き消した。

 

 ほんまは、分かっとんねん。

 

 ああやって兄は、真面目に、公平に生きようとしている。それは国民にも伝わっているようで、ちゃんと、民衆もついてきている。兄の実直さ故の話だ。

 

 でもな。やっぱり俺には、見えてまうんよ。

 

 幼いころからずば抜けて、早良親王は“鋭かった”。そう、まるで神が宿っているのではないかと、不気味がられる程に。

 天性の勘の良さ。同じ寺で学ぶ子供たちの密かな恋仲も、大人が抱えている後ろ暗い事情も。理由は分からないが、全て全て、早良には見通せてしまっていた。

 

 だから。自分が立太子された経緯も、兄がそれに対してどう思っていたのかも。そして―――今兄が、自分にどう思っているのか、ということも。

 

「俺には分かっとるんよ、桓武帝」

 

 美貌の親王。人を惑わす力があり、神にも通じている――――。自分の身辺が最近、くすぶり始めているのは分かっていた。だから、早良は思う。きっと、次の天皇は自分ではないのだと。

 

「全部、知っとるんや。せやから、兄さん」

 

 ありもしない嘘を並べたてまつられ。揚句遠国で死なねばならぬというならば。

 

「死んでやる、て、ゆうてんどすわ」

 

 一人呟いて、くすくすと笑う。ついでに誰かを呪ってやるのもいいかもしれない。かつて栄華を極めた、長屋王のように。簡単に忘れられるんは面ろないわ。覚えてもらっといた方が、嬉しいに決まっとる。

 はたと我に返り、どうかしてるな、と肩をすくめた。自分の死に際を想像して笑うだなんて。

 

「せや・・・種継から菓子、もろたんやったなぁ」

 

 ちょっと、安殿ちゃんとこにでも、遊びにいったろかな。安殿親王は、あの藤原式家の良嗣・百川兄弟の血を継いでいるだけあって、非常に聡明な子供だった。24歳年下のこの甥を、早良はとても可愛がっている。年齢の割に落ち着いたあの瞳には、確かに自分と同じ、先を見通しすぎてしまう力が、宿っているから。教えてやらねばならないのだ。先が見えるというのは、決していいことなのではないということを。早良には、自身が東大寺で過ごす中で身に着けた制御の術――“見過ぎない”ようにする方法を、甥に伝えてやらなければない義務がある。あの子もきっと、俺と同じように苦しみはるはずやから。

 

 指先に、冠の纓が触れる。少し迷ってから、引っ張った。

 

 はらり。

 

 本来のように髻を結っていればこう簡単に冠が外れる訳はないのだが、公式行事でもない限り(そもそも公式行事に出ること自体を厭うのでその機会すらないのだが)、早良が髪を結うことはない。兄のような短髪でもない、長く長く伸ばされた髪。ある一種の、世の中へのアンチテーゼでもあった。

 

 壁際の箪笥から菓子を取り出し、鼻歌交じりで早良親王は自室を出る。喜んでくれはるかな、と少し期待しながら、“立場上での”次期天皇は、“真の”次期天皇のもとへと向かった。

 

 

小説ホームへ

bottom of page