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慄いて、振り回されるのは

 

 生まれかけの感情に振り回される忠興と、それを見守る宗茂。

 

 

 *****

 

 

 夏の暑い日のことだった。聚楽第城下の立花屋敷、彼の居室にはよく日が当たる。彼は縁側に、日向を好まない忠興は内側に、各々座っていた。
 会話は暫く途切れたまま。だが、その静寂は気まずいものなどではなくむしろ心地よいものでさえあり、普段は隙など絶対に作らない忠興も、この時ばかりは狩衣の鋲まで外して寛いでいた。
 対する宗茂も、いつもの洋装ではなく涼しげな紺の小袖を一枚纏うだけ、という大変簡素な格好で、ただやはりこの暑さのせいなのか、常よりも髪を高い位置で結っている。
 たったそれだけと言えば、まぁそれまでの事なのだが。
 先程から顔だけは平静を保ちながらも、忠興の心は言いようもなく掻き乱されていた。

 だって、と忠興は内心溜め息を吐く。いつもは低めに纏めた髪に隠されている宗茂の首元――うなじが、今は惜しげもなく晒されているのだ。少し緩められた襟、首筋から鎖骨にかけての筋。その美しさに思わず見とれては、はしたないと我に返り、慌てて目を逸らす始末である。無論気取られている訳はないと思うが――何せ鎮西一の若武者はその天然さも天下のお墨付きなのだ――、それでもやはり、武家貴族細川家の当主としてこんなことに顔を染めるだなんて、と、忠興の中では素直な美的感覚と高い自尊心が葛藤していた。

 

「忠興君、どうしたの?」
「えっ、?」

 

 反らしていた顔を上げると宗茂がこちらを見ていた。いきなり声をかけられてあの、と言葉が詰まって何も言えないでいる忠興に、しばし峻巡する素振りを見せてから、やがて宗茂が、何か思い当たったのか静かに笑みを浮かべる。

 

「気になる?」

 

 何を、とは言わない。だが、確実に見透かされていることは分かった。羞恥がカッと沸き立って、忠興は反射的に顔を伏せた。

 

「何で、分かって…」

 

 やっとの思いで一言吐き出す。ちらと目線だけ上向けると、宗茂の銀色の髪先が揺れたのが見えた。

 

「そりゃ、ね。分かるよ、君の事なんだから」
「……ッ」

 

 だからどうしてそう、そんな恥ずかしい台詞を、いとも簡単に言えるんだ。いたたまれなくなって、は、と息をつく。暑いな、と襟の合わせに指を掛けて緩めようとしたその時、距離を詰めてきた宗茂にいきなり手を取られた。

 

「宗茂殿…っ?」

 

 何も言わずにしばらく忠興の手を見つめる宗茂。やがてその握られた手が、宗茂の首の後ろ側へと導かれる。

 

「宗茂殿、待って」
「待つって何を」
「だから、その…」

 

 困惑と羞恥と焦りがない交ぜになって、忠興は思わず制止の声を上げた。一瞬宗茂の力が緩んだのを見逃さずに腕を払おうとする。
が。

 

「駄目だよ、忠興君」
「わっ」

 

 逆に、掴まれた手首を引き上げられてしまった。自然、バランスを崩して宗茂の元へ倒れ込んでしまう。幼い頃から戦場を遊び場にしていたという宗茂に、日頃武働きを得手としない忠興が力で勝てる筈もなかった。
浅くなる呼吸。慣れない他人の体温と匂いに身体が竦む。それは流石に理解したのか、上体を起こすことは許された。しかし、手首は取られたままだ。
 何故宗茂が放してくれないのか、次は何をされるのか。混乱と微かな恐怖の底で泣きそうになりながら宗茂を見ると、宗茂は眉を下げて笑った。全く忠興君は、と。

 

「忠興君」

 

 真面目な声。指が絡められ、再び宗茂の首筋に持っていかれる。今度は抵抗する術を持たなかった。

 

「あ…」

 

 指先から、手のひらを。まるで押し付けるかの如く手を押さえられ、親指の先を頸動脈から喉仏にかけて触れさせられる。
自分のものより少し大きな手。そこまでごつくはなく、むしろ華奢なようにも見えた。それが今、忠興の手を甲から押さえ、一番の急所を触らせている。少し力を入れられれば、簡単に息の根を止められるというのに。

 容易く首を触らせるなどそれでも武士か。何故そうも油断する。いくら親しいとは言えど今は戦乱の世、他人などの、ましてやこの細川などの前でそう簡単に隙を見せるなど――
だが、浮かんだ罵詈雑言は、明らかな心拍数の増加を打ち消すことはできなかった。そんな言葉はおろか、ひとひらの茶化しさえも口に出せないでいる。
 適当に煙に巻くのは細川のお家芸のはずなのに。何かが調子を狂わせる。
 儘ならない感情に苛立ちを覚える傍ら、宗茂の首に触れた指先が確かに熱を持ち始めていることを、忠興は自覚していた。

 

「君の手は冷たいんだね」

 

 宗茂が言う。息が詰まる。

 

「あのねぇ忠興君、俺はね、君が俺を信用してないだなんて事分かってるんだよ」
「………」

 

 胸に痛みが走る。錐で刺されたような、鋭い痛みだ。
 そう。だって、人なんて信用してはいけないんだと、小さい頃から叩き込まれてきたのだから。
 喩えそれが好いた相手だろうが、親だろうが子だろうが。信じる者は足を掬われる。そう、言われ続けてきた。

 

「…そう、かもね。なら僕なんて相手にするの、止めたら?」
「そうじゃないってば」

 

 手を掴んでくる力が、少し強くなる。

 

「あのね、君だけなんだよ」
「え?」
「君だからだ、首触らせるなんてさ。俺だって一応武士だよ。…君が特別なの。分かる?」

 

 揺るぎない紺碧の瞳に射抜かれて、忠興は口をつぐんだ。
 そっと腕が下ろされる。だが手は離されず、むしろ更に強く捕らえられた。

「君は確かに、俺の事なんてさらさら信用してないんだと思う。でもね、これだけは分かってほしいんだ」

一旦言葉が切られる。ゆっくり目を閉じ、再び開いてから、宗茂がはっきりと言い切った。


「君がどうであれ、俺は君を信用してるし、君の事、好きだよ」


「……ッ!」


信用している。好きだ。頭の中で意味が認知しきれず、音だけがやけに明瞭にこだまする。
どうして、どうして。所詮君は他人でしかないじゃないか。そして、どうして、俺はそれを、真に受けてるんだ。
 そんなの、父親だって言ってくれなかったのに。とっくに切り捨てたと、思ったのに。

 わだかまる疑問と不信が爆発的に引火した。

 

「嘘だ…っ」
「嘘なんかじゃないよ」
「いいや、嘘だ、嘘に決まってるっ」
「忠興君っ?」
「嫌ぁ!」

 

 訳も分からぬままに宗茂を突き飛ばす。
暴走する感情。だが、こうしてしまえばもう宗茂は自分に関わっては来ないだろうと――もっと言えば、もう話し掛けても来ないだろう、と冷静に計算している自分がいるあたり、もしかしたらこの暴走でさえ実は"本能"の指示のもとに"理性"が引き起こしただけなのかもしれないな、と少し悲しくなった。
 だが、事実取り乱した頭は纏まらないし、笑えるくらい感情の針が振り切れているのも確かだ。ねじれた本能と理性に吐き気に近いものを感じつつ、思うがままに忠興は叫ぶ。

 

「僕は今まで誰からも愛されずに、誰の事も信用せずにやって来たんだ!それなのに、何で君は、僕を構う?僕はそんな、信用されるような人間には見えないはずだし、それでええと、むしろそうであれと、思って来たんよ…!だから皆、その通り俺を嫌うか、気味悪がるかしかせぇへんかった!せやからな、あんたはんの台詞なぞ全部、細川家に取り入る為の耳触りのええ方便としか思われへんのやッ!」

 

 言葉が乱れている気がするな、と思ったが、構わず出した。気が付くと涙まで溢れている。人様の前で何をやってるんだか。無様もいいところだ。
 霞む視界の中で、宗茂が驚いたような顔をしているのが見えた。ああ、壊しちゃった。きっとその表情も、数秒後には呆れか嫌悪に変わるはずで――


 急に、身体が傾いた。

 

「えっ…」

「忠興君!」

 

 身体が、続けて頭が、動きを止める。まずい、そう言えば最近貧血気味で、夜も暑苦しくってそんなに寝てないんだった。
 宗茂が飛び込んでくる。頭を畳に打つ寸前で抱き止められた。どさっと重力に任せて倒れ込む。

 あれ、何で抱き止めてくれたんだろう。今宗茂殿は、僕に呆れてるはずなのに。
 抱き直された。宗茂の顔が見える。子供みたいに高い体温は、いけないと知りつつも忠興を意識の闇へと誘った。

 

「大変な思いをして生きてきたんだね、君は」

 

 ぼやけて聞こえる優しげな声。何故、何故そんな声を出すの。
 身体が固まるのはどうしようもないが、もういいから、と言うように目を閉じさせる宗茂の手が、驚くほど心地よかった。

 

「少し眠るといいよ、忠興君。僕は、いなくなったりしないから」

「…、…」

 

 呟きは、声にならない。そっと、頭を撫でられた。

 人に寝姿を見せるなんて、細川家当主として失格だな。そんな風に自分を笑いながらも、忠興はこの心地よい闇の中に意識を落としていった。

 

 


**

 

 


 髪をまとめているリボンを外してやる。縋り付くようにして眠る忠興の背に、はらりと深紅の長髪が散った。
 どうしてこうも頑なに、人に入られるのを拒むかな。
 最初に忠興の父親――幽斎公に会ったときにも確かに、あんなのと友達になりたいだなんて、君も物好きだな、と言われたが。正直、ここまで難攻不落だとは思っていなかった。
 だが。

 

「分かったことも、ある」

 

 宗茂は、一人呟く。
 半ば挑発じみた事を言って、ようやく聞けた本音の一欠片。


『僕は今まで誰からも愛されずに、誰の事も信用せずにやって来たんだ!』


 圧倒的な人間不信。傲慢な態度隠された臆病さ。よそ行きの笑顔の裏側の底知れぬ他人への失望。人形めいた冷たい美貌の下の、激情。

 

「……まぁ」

 

 それが細川の流儀だと言われれば納得するしかないのだが、それにしてもだ。あの感情のこもらない笑顔のまま、求められるがまま権力者に身体を売ることもあれば、身内の婿でさえも誅殺するという。どこまで本当か分からない様々な噂がさらに影を落とし、この細川忠興という人物をより一層昏く、艶美に仕立て上げていた。
 だからこそ。

 

「俺の前でくらい、素直になってくれればいいのに」

 

 初めて顔を合わせてから、相当経つ。それでも忠興の中では、自分はまだ信じるに値しないらしい。

 

「俺ばっかりが、友達だって思ってるのかな」

 

 一応忠興にも親しいと呼べる相手はいるようだが、それも恐らく「付き合いをしていて利益がある相手」か、「いざというとき"好意的に"捨て駒になってくれる相手」のどちらかだ。そういう人たちから比べれば自分は、彼とはより"友達"に近いものでいられている気がしていたのだけれど。

 

「精進あるのみ、ってことだね」

 

 ねぇ、忠興君。俺は君を信用してるし、君ともっと仲良くなりたいと思ってるんだ。だからね、さっきは怒らせてしまったけれど、一瞬でも君の素が見えた気がして嬉しかったんだよ。

 

「いつか、本当の友達になってね、忠興君」

 

 静かな部屋に、忠興の寝息だけが聞こえる。宗茂は微笑みながら、忠興の髪を梳き続けた。

 

 

 

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