とある近習が見た話
一応これだけで完成ではないけど、とある近習が見た話。続き、というか裏があるけどまだ。
畠山のお屋敷は、尾州総州共々庭には彼岸花が咲き乱れてるイメージで。尾州は赤、総州は白。
***
ある夜半。畠山総州家当主の義就様のお近くに仕える私は、屋敷の奥深くにある書庫に向かう廊下を歩いておりました。というのも、明日の会議で必要になる書類の準備を一つ忘れていたのです。正直、総州家の御屋敷はその散りばめられた灯篭のせいで夜は不気味で、特に書庫に向かう方向にはご主人様の書斎や寝室があるため、猶更“あまり夜来てはいけないところ”という感じがしていて大層居心地が悪く、いっそ気味が悪い気さえして、私は普段はあまり気にせぬ人ならざる者などの気配に、怯えながら歩いていたりしておりました。
そもそも、横槍のように突発的に仕事が入ったからとはいえ、重要な書類をきちんと作っておかなかった私が悪いのです。目的の書物は分かっていたので、それだけ取って早く戻ろう。袴の裾をさばいて、磨き上げられた廊下を滑らないように小走りに進んでいると、ふと、何か声が聞こえたような気がしました。
猫?
甲高い鳴き声のようなものが微かに、鼓膜を震わせたような気がしたのですが。屋敷の外で、発情期の猫でも鳴いているのでしょうか。もしそうならばあのご主人様の事ですので、うるさいから殺せというに決まっています。今は戦後処理の真っただ中でご主人様も気が立ってらっしゃいますから、もしかしたら命令が下る前に処分しておいた方が良いのかもしれません。
また仕事が増えた、と少し肩を落としておりますと、今度ははっきりと、また鳴き声が聞こえました。そして広い庭を挟んだ向かいの廊下、暗闇の中灯篭の明かりに浮かび上がる、旦那様の寝室。
障子が、空いています。
これじゃあ、猫の声も室内まで筒抜けじゃないか。けれどこればかりは主の部屋ですので、障子を閉めに行くわけにもいきません。しかし、ただでさえ幼少の頃より眠りが浅いというご主人様なのに、外の騒音のせいでまた眠れなかったとあれば・・・明日、どれだけ機嫌を悪くされているか、想像もしたくありません。やりがいはあるものの、やはり仕え辛い主であることには変わりませんので・・・いえ、これ以上はやめておきましょう。とにかく今の私にできる事は、なるべく早く書庫に行って戻り、会議資料を作成することだけです。万事、滞りなく。近習など、その程度のものなのですから。
明日、朝から鞘で打ち据えられたりは勘弁なのだけれど。以前、不手際をした際に濡れ縁から蹴り落された時の痛みを思い出して、なんだかその時挫いた左足首がずきり、と痛んだような感じがしました。
早く行こう。まだ微かに耳にまとわりついている気がする猫の甘い鳴き声を振り払って歩き出そうとしたその時。
ガタン、と。
障子に何かぶつかったような音がしました。それそこ強い力で揺らされた音。静寂の中のあまりに突然の物音で、私はびくっと肩をすくめました。いや、驚いている場合じゃないだろう。何故こんな夜更けに、主の部屋から物音がするのだ。不審者か、間者か。それとも―――
一瞬よぎる恐怖を捻じ伏せ反射で太刀の柄に手を掛ける。いや、あのご主人様なら間者くらい笑顔のまま斬り捨てるだろう。だが、一応他の近習に伝えた方がいいのか?それとも、今すぐ単身でも飛び込むべきか。もしかして幽霊、だなんていう頭の片隅の声を考えないように必死に頭を回転させます。薄くなる空気、猫の声、灯篭の光。開いた障子の奥の闇から、ふと、
白い、手が。
「―――――ッ!!!!???」
突然、障子の縁に細い指が掛かったのが見えた気がして、一気に全身が凍り付きました。喉はひきつり、叫んでしまいそうな口を必死に押えます。嘘。嘘だ。幽霊、幽霊?だが、その白い手はすぐに部屋の奥へと消えていって。私は、足がすくんで、一連の光景をただ動悸と共に固まって見ているしかありませんでした。
そして、す、と開いていた障子が、閉まりました。ぱたんと、何事もなかったかのように。
また、静寂が夜を包み込みます。私は、早鐘のように脈打つ己の心臓をそっと手で押さえ、何だったんだ、と吐き出しました。
きっと、疲れていたんだ。そう、だからただの物音にあそこまで過剰反応してしまって、挙句白い手が見えた、だなんて。そんなこと、あるはずないのに。
「そう、そんなこと、あるはずない。」
あれは単なる幻、と言い聞かせ、私はまた歩き出します。幻。そう、全部全部、私の疲れのせいなのだ。
早く、書庫に行って戻ってしまおう。そも、書類の不備があったなんてことがご主人様に知れたら、幽霊なんかより余程恐ろしいことが待っているのです。初対面の方は皆ご主人様を“丁寧な物腰で好感が持てる”などと評しますが、実際はその知的な笑顔の中で瞳は全く笑っていないのですから。
宵が明けるまでには何とか仕上げないと、と、私は白い手の残像を振り切るように、頭の中で書類の下書きに取り掛かることと致しました。
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翌朝。朝日の差し込む会議室で、私は徹夜で作成した資料を各席に置いておりました。あれから結局作業を始めはしたものの色々なことが気にかかり、完成までに時間がかかってしまったのです。幸い、本日の会議についての私の仕事はこの資料作りまででしたから、会議中の給仕は他の近習に任せて少し仮眠を取るつもりです。
配布すればおしまい。ふと、開かれている障子の向こう、くれ縁の先の小庭に目をやると、薄っすら紅に色づいている桜の葉が、吹き過ぎる風に乗って揺れます。昨夜は不気味に明かりを灯していた灯篭も、朝露に濡れた庭の中では美しい風景の一つに同化しておりました。
「やぁ、おはよう。朝からご苦労様だね」
「わぁ!!?」
突然声を掛けられ、思わず手に持っていた書類を取り落してしまいました。滑るように飛んで行った紙をそっと拾い上げてくださったのは、いつの間に現れたのか、当のご主人様です。・・・え、もっと、マズい。
「も、申し訳ありませんッ」
「はは、朝から元気が良いねェ。ほら、どうぞ」
「あ、ありがとうございます・・・」
反射で片膝をついて、頭を下げます。が、ご主人様は思ったより遥かに穏やかな声で紙を返してくださいました。
昨日の、猫の鳴き声は。寝不足は、大丈夫なのでしょうか。そっと顔を上げると、ご主人様の眼鏡の奥の深緑の瞳が、柔らかく笑っています。
そっと手を差し出されたので、断るのもどうかと思い、その手を取って立ち上がりました。
「失礼致しました、御屋形様」
「今日は風が強いからね、準備するなら戸、閉めた方が良いかもしれない」
「はい・・・・あ、そういえば」
「ん?」
戸を閉める、と言えば。昨日の一件は結局・・・。
ご主人様の、この笑顔の訳も気になりますし。私は、思い切って聞いてみることにしました。
「あの・・・、昨日の夜更け、書庫に用があって出向いていたのですが・・、その途中、ご主人様のお部屋の方から何か、物音がしまして・・・」
白い、手が。恐る恐るそう聞くと、旦那様はふ、と笑みをこぼし、黙ったまま私の頭をそっと撫でました。
そして、一言。
「・・・・見えちゃった?」
にこり、と。瞳が、すっと鋭くなりました。この目は、まずい。
「・・・・あ、あの、決して私、たまたま通りかかってしまっただけで、申し訳―――」
「ああ、別に怒ってる訳じゃなくてね、見えちゃったかー、ってさ」
いいのいいの、とまた柔和な笑みに戻った旦那様は、どうも私をおからかいになったようです。はぁ、と胸をなでおろしながらも、内心冷や汗がだらだらです。またぽんぽん、と私の頭を撫で、ご主人様はそっと庭に降り立たれました。
風が、ご主人様の生成りの服の袖を、裾を、宙に攫います。
「・・・まぁ、まだお前には早いかもねぇ。知らなくていいよ」
「そう、ですか・・・ご主人様が心地よくお休みになられていれば、私はそれでよいのですが・・。昨晩も何やら、屋敷の外で猫が鳴いていたようですので」
「猫?」
「ええ・・・発情期なのでしょうかね、何やら猫の鳴き声のようなものが聞こえまして」
「そうかい・・・発情期の猫の鳴き声・・なかなか上手い事を言う」
フフ、とご主人様が目を伏せて笑います。何か面白い点があったようですが、深く考えることを私はやめました。主の言うことには素直に従うのが吉です。
書類を一通り配布し終え、準備が整ったことを告げると、ご主人様は庭からこちらに戻ってきました。室内を見通し、ふと、床の間に生けた赤い彼岸花に目を向けられると、
「赤・・だけだと多少毒々しいな。白も一輪、混ぜてやってくれ。鮮やかさが引き立つろう」
「白の曼殊沙華、ですか・・・しかし、白は尾州の――」
「いいから。俺がやってって言ってるんだから」
白の曼殊沙華は、対立する尾州家当主の畠山政長様が好んで身に着ける花だということは、この総州家では必ず覚えておかねばならぬことの一つです。対してご主人様がよくお身に付けになるのは、赤の曼殊沙華。うっかり色を間違えでもしたら、恐らくその場で首を落とされます。現にこの部屋から見える庭にも赤いあの花が咲き乱れておりますし、それと同時に、今までにこの庭には幾度となく赤い血が舞ったとも言われておりますから、当のご主人様が敢えて白も混ぜろというのは、何かしらの意図を含めた御命令なのであろう、ということは容易に察することができました。
白を一輪、そしてそれを取り囲む、赤。いつか尾州家を殲滅するという意志を、今回の戦後処理会議で家中にお示しになられるつもりなのでしょうか。何にせよ、私はただ従うまで。仮眠をとる前に一度街中に出て花売りを訪ね、予備も含め3輪ほど白い曼殊沙華を購入してきましょう。それを生けてしまえば、今度こそ私の仕事は終わりです。
それと、今日は俺の居室の方には近づかないでね。そう言い残し、ご主人様は去っていきました。ご自身で直接会議室を見に来るということは、それほどまでに本日の会議に気合を入れているということなのでしょう。万事滞りなく。近習としての大切な言葉をそっと呟き、私は見えないように小さくあくびを一つ致しました。
さて、外出の準備をせねば。また先ほどのように風で紙が飛ばぬよう、部屋の障子を全て閉めて私はそっと退出しました。度々戦場に立つお方なせいか、ご主人様は現れる時も立ち去る時も全く気配がありません。誰もいなくなった朝の廊下を戻りつつ、結局のところ、昨日の出来事は一体何だったのだろうかと、私はただ首をかしげるのでした。