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ある仕立て屋の話

未完。役者としてのクラウスの様子。

 裾にレースを施す。たっぷりのシルクと、所々には最高級英国製の綿布を。オートクチュールの職人である俺は、数か月前まで、この衣装を着る方の立場にあった。

 町一番を誇るこの仕立て屋に金を惜しまず衣装を注文してくる大口の顧客。その中にかつて俺が下級の劇団員として所属していた白百合座はその名を連ねている。今俺が仕上げているのも今度の公演で使用する衣装なのだが、・・・惜しげなく注文に入った天然ものの真珠に、何層にも重ねられた細やかな刺繍と襞。その集大成―――劇団をやめた俺が最初に任せられた衣装が、今完成の時を迎えようとしていた。

 まるで血で染め上げたかのように真っ赤なドレス。殺人の快楽を覚えた、侯爵家の麗しい夫人。最初は常に白いドレスを身に纏っていたのだが、そのうち赤い赤いドレスが彼女の象徴となっていくのだ。衣装を作るにあたって借りた脚本に目を通した時点では配役はまだ分かっていなかったのだが、・・・こっそりと見に行った練習風景で、俺は全てを察した。ああ、やはり。この狂気に溺れた夫人の役など、演じられるのは一人しかいないではないか。いや、この劇団どころか下手したらこの世界にだってたぶん一人しかいない。あの美しさ。あの、人形めいた不気味さ。一連の事件が発覚した裁判のシーン、「何人をも快楽のままに殺し歩いた女」が、そこにはいた。この人を最大限引き立てられるような衣装が作りたいと、そう思った。

 多分、きっと「彼」のことなのだ。役作りと言って平気で恐ろしい事にも手を染めているのだろう、あの時のように。自分の身など演技のためなら顧みず、時として性別さえ躊躇いなく捨て去るような人なのだから。

 かたり、と机上に糸切鋏を置く。

 

『あ・・・痛いッ、嫌ぁ!!』

 

 がしがしと、頭を掻く。沸き溢れる記憶、歯止めがかからない。

 裏路地。薄汚れた歓楽街。暗い部屋の一室。支配人の赤く笑った口。

 

『薬、は、やめ・・・っ!!明後日、公演だ、から・・・!』

 

 その床で、投げ捨てられたぼろくずのように、彼は扱われていた。白百合座が生んだ最高傑作の俳優が。か細い悲鳴を上げながら―――――。

 

 だが、あの時彼は。3,4人の男に嬲られながら、あまりの状況に思わず硬直していた俺を視界に認めた瞬間、恐怖でひずんだ顔の中にどこか満足げな表情を浮かべたのだ。

 

 

 

 あれを見てしまったことをきっかけに、俺は決心をつけ、ずっと胸元にしまっていた退団届を座長に提出した。そして、元々実家が経営していた伝手で、今の職に収まったのだ。嫌だと逃げ回りながらもやらされ続けていた縫製の技術が買われ、こうして一着を仕上げることを許されるようになったものの・・・それでもやはり、あの光景が頭から離れることは、ない。

 

 マッドハッター――狂った帽子屋。本名、クラウス・ローレンツ。それ以外のことは何もわからない。老人からうら若い乙女の役までなんでもこなし、その化け物じみた演技力、歌唱力は国内随一とさえも言われている。

 自分の実力に限界を感じていた俺の背を押した、常人の思考の限界を遥かに超えるような彼の大きな秘密。脳裏に灼け付いたフィルムリールが、暗い工房でゆっくりと回りだした。

 

 

 

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 二日後に大きな公演を控えたとある夜。自主練習の後、俺はたまたまローレンツと更衣室で一緒になった。無論、向こうは主役でこちらは脇役。だが、いつもはそもそも妬むなどという感情すら湧かないほどの圧倒的実力差を見せつけてくる相手が、今は目の前で、通し稽古後の化粧を落としている。哀れにも散々に利用された挙句貶められた娼婦の復讐劇。濃いメイクやきつい香水を丁寧に落としているその男に、俺は尋ねた。

 

『なぁ、あんた。』

『はい?』

『どうやったら強姦される娼婦の演技なんて出来るんだよ。流石の舞台監督も唖然としてたぞ』

 

 若干の苛立ちも混ざっていたのかもしれない。うだつが上がらない自分と、花形役者の彼。半ば吐き捨てるように言った俺に、彼はとても不思議そうな顔をしてこう言った。

 

『どうやって、と言われましても・・・。私の思う、知っている、似た感情の全てをつぎ込んだだけですよ、別に特別何をしているという訳ではありません』

『だとしても!可笑しいだろ、何なんだよあんた。知ってる限り全体の読み合わせにも基礎練習にも参加しねぇし、でも衣装合わせと通し稽古の時にはもう完璧になってる。常人のできることじゃねぇよそんなん、単なる化け物だ』

 

 冷静になれば何を言っているんだ、という話なのだが、あの時は完全に頭に血が上っていたのだ。言い切って彼の方をにらみつけるようにして見ると、首を傾げたのち、あ、と何かを思いついた表情で彼が近づいてきた。

 

『役作り、ですかね。特段演技力に優れていると自分を思ったことはありませんので、やはり違いといったら役作りでしょう。とことんまでやってみればいいんです、自分で。あとはその時の感覚を舞台上で引きずり出すだけ。学習などいらない、記憶に叩き込めばいいんですから』

『役作り・・・記憶?』

 

 彼の赤い瞳が煌めく。そして、隅にあったメモ用紙に、何かをさらさらと書付けて持ってきた。

 

『明後日でしたね、本番は。気になるのなら私の役作りの現場に是非おいで下さいな。場所はここから2ブロック南の通り。あまり治安の良くない下卑た歓楽街ですが、貴方は娼館の仲介人の役ですし丁度いいでしょう。雰囲気を味わって本番に備えるのも一つの手。この紙を見せれば筆跡で私だと分かるはずですから、おそらく私のところまで誰かしらが連れて行ってくれますよ』

 

 舞台はフィクションであり現実なのですから、と歌うように言いながら、彼は身支度を始める。南の歓楽街は一本道を間違えると裏社会に繋がっていると言われる程治安が乱れた地で、あたり一帯をゴエティアというマフィアのファミリーが取り仕切っているのだそうな。いくら役作りのためとはいえそんなところに行くのか、と思いはしたものの、演目的には確かに内容とその歓楽街の雰囲気はおおよそ一致しているといえる。一流の役者はそんなことには怖気づかないのか、などとメモの端正な字を見ていたら、もう部屋の中に彼の姿はなかった。

 

 

 

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 あまりきれいな恰好で行くものではないと思ったので、適当な古い舞台衣装を上からひっかぶって俺は外に出た。言われた通り、通り裏に面する通用口から出てそのまま2ブロックを直進しする。妖しげにともされた看板、露出の多い女性たち、スーツを着込んだ紳士がだらしない笑顔で店に吸い込まれていく。徐々に徐々に不健全になっていく街の空気に俺は、思わず目を背けた。

 目的の地区に差し掛かったというのは、歩きながらでもすぐに分かった。行きかう人々の目つきが、異様に鋭いのだ。他者を排斥するような暴力を孕んだ瞳。刺青、そり上げられた頭。あまりにも日常離れしすぎた雰囲気に身を凍らせていると、やがて一人の男がこちらに近づいてきた。にこにこと親しげな様子で、話しかけてくる。

 

『こんばんは、こんな所でお一人ですか。それとも何か、御用で?』

 

 用が無いのなら帰れ、ということか。真綿の中に針を仕込んだような言葉に、俺はもらったメモのことを思い出す。この男に聞けば、彼のもとへと連れて行ってもらえるのだろうか。

 

『あの・・・これ、見せれば分かるって、言われたんですけど・・・』

『はて?拝見いたしましょう。失礼いたします』

 

 白手袋がメモをかっさらっていく。ふむふむと一瞥したのち、男がぱっと先ほどよりもはるかに慇懃な礼をしてきた。

 

『これはこれは、ローレンツ様のご紹介でございましたか。大変失礼いたしました。どなたかが現れ次第連れてくるようにと仰せつかっております。さァさ、こちらへ』

 

 手を取られ、ぐいぐいと引きずられていく。なんだなんだ、この妙な男は。怪しげな色白のバトラーを見ながら、俺は首を傾げた。治安の悪い通りの真ん中をためらいもなく歩く彼を見て、しかも恐ろしいことに、道端で談笑をしているごろつきどもが皆一歩引いて頭を下げるのだ。そのたびに腰に差している銃器だろうか、何かが一斉にカチャリと音を立てるのが、怖い。そして、何よりもやばいと思ったのが、不穏さが突き抜けている少し立派な建物の前でバトラーが足を止めたこと。通りの奥に待ち構えるようにして立っていたそこには大勢の黒服の男たちが隠そうともせずに刃物や銃をもってうろついており、一瞬、自分は果たしてここから生きて帰れるのだろうか、とそんなことが脳裏をよぎった。

 先ほどのデジャヴのように、黒服たちが一様にバトラーに礼をする。重厚な装飾の施された扉を前に、ふと男が言った。

 

『・・・人間として、と前置きましょうか。僭越ながら私の意見を申し上げますが、・・・・何を思ってローレンツ様は貴方に“アレ”を見せようとなさっているのでしょうか。と、素人の私でさえも思ってしまうような光景を、貴方はこれからご覧になる訳ですが。如何します?引き返すのなら今ですよ』

『・・・・役作りと、言っていました。彼の考えられないほどの演技力の源を聞いたら、それは役作りの差ではないか、と言っていたんです。知りたいなら来いと、確かに彼は、そう言っていた。俺は、それが知りたいから来ました』

 

 もう、ここまで来て引き返すなんて嫌だという道すがらに沸いた恐怖心と、あの人形のような男の秘密を知りたいという好奇心。腹から声を出してそう言うと、

​(未完)

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