それは黄昏の甘ったるい
頭痛な孝介が悠理に八つ当たりする話。静かな狂気を目指しましたが無理でした。
さり、さり、と涼やかな音を立てる薬のシート。視界が、夏の日差しのようにきらきらと光る。あぁ、まただ。終わらないいたちごっこに飽き飽きして、俺は目の前で日誌を書く悠理に目を向けた。
几帳面な字。さらさらと零れ落ちる髪。この無駄に綺麗な男は声が出ないし、俺は・・何かもう、山ほどありすぎて自分でも良くわかってない。意外とこう見えて、実は規則正しい生活を送ってるのだ。夕飯も、朝御飯も、寝る時間も起きる時間も。
だというのに、治らないこの片頭痛。脳のオーバーヒートのせいもあるんだ、とか言ってたっけ、先生は。同じように、董生も悠理も頭が痛くなることはたまにある、と言っていたが、大半は頭を使うと極端に眠くなりやすい、とかその程度だというから、俺のこれはまぁ、きっと“並みの天才”のそれとは、違うんだろうね。
カーテン越しの淡い夕焼けが目に突き刺さる。どこかのカラスの鳴き声が、鼓膜を切り付ける。1つの机に、俺は椅子を逆向きにして、向かい合うように。処方薬は数がないから、大して効きもしない市販薬だけれど、飲まないよりはマシか、と俺はシートから白い錠剤をぷちぷちと押し出した。
いい加減、二年も付き合ってれば前兆だって分かってくる。きっと明日辺り、動けずただ吐き続ける事しかできないくらいひどい頭痛が襲ってくるはずだ。予防薬と、頓服と、制吐剤と、あと胃薬。一体、何を治して何に痛め付けられてるのか、自分にも良くわからなかった。
真新しい1シートが無くなる。薬用のポーチから、また新しいシートを取り出す。ころころと、ラムネのように、机の上に転がる白い丸。こんなものでも、多少はこのきらきらが、鈍痛の予感が、マシになるのなら。2シート目を空にしてざらっと手のひらに集めたところで、思いっきり正面の男に頭をグーで殴られた。
「った・・・・、何、グーって酷くね?」
『何錠飲む気だ馬鹿、いい加減にしておけ。一回の限度は?』
「2錠・・」
『今どれくらい出した』
「えっと・・・2シート」
ぱ、と無音の手話ではあるが、明らかに怒ってるのは分かる。手元を見れば、手のひらの上にざらっと鎮痛剤の山が出来上がっていて、あー、うん、どうしよ。
「無意識だっつの、わざとじゃねぇよ。・・でも出しちゃったし、勿体無いな」
『馬鹿野郎、あぁ、小さいジップ付きの袋あるから、やる。そこに入れておけばいい』
「・・ありがと」
鞄からごそごそと漁って、百均に売ってるような口の閉じる小袋を悠理が渡してきた。
さらさらと、小袋に白い錠剤を戻す。手に粉がついたなぁ、と指先を舐めると、はしたない、とさらにウェットティッシュも投げて寄越された。
「あー、どうも。悪いね」
もそもそと手を拭く。溜め息が聞こえたから、2錠だけ残して袋の口を閉じた。
からん、と口に放り込む。そのままラムネよろしく噛み砕こうとしたら非難じみた視線を感じたので、大人しくお茶のペットボトルを取り出した。そういえば、台風来るとかいってたっけ。
『とはいえ、効かないと言ってなかったか、それ』
ぱたんと日誌を閉じた悠理が、話し掛けてくる。手話、ねぇ。こいつ話せなくなってまだ一年ちょっとじゃなかったっけ、相変わらず覚えの早い奴。とはいえ1度本を読んで何となく意味がわかってしまっている自分も、正直同類だ。化け物。気持ち悪い子。厄介な子・・・あぁ、頭痛い。目の前がちかちかする。
「まぁ、ね、でも飲まないよりは多少マシ・・カフェイン入ってるからかな」
『かといってオーバードーズは良くない。というか董生が面白がるからやめろ、あいつの好奇心は俺も手に負えないから』
「知ってる。心配、じゃないんだよね、あいつは。だから面白いし、付き合ってて楽なんだけど。」
おかしいと言われるなら、同じくらいおかしい奴らと。方向性は違えど、俺も、董生も、目の前の悠理だって、何かしら大切なものは飛んでるし、要らないものはあり余ってる。咲だって瑞希だってそうだ。ただ、そのツケを何で支払ってるのかが全員違うだけで。
筆箱にシャーペンを片付ける悠理を横目に、俺は明日のことを考える。きっと朝起きた時点でとんでもないことになっているには違いない。仕方ないから、夕飯前に追加で予防薬を飲むか。起きてすぐ頓服を飲んで、動けるかな。1限は遅刻になるだろうけど、ばぁちゃんに病欠の連絡いれてもらわなきゃ。光を避けて、音を避けて。イヤホン絶対に忘れないようにしないと、んで、バスで行こう、明日は。無理だったら休む。学校で吐くよりマシだし。
ああ、なんかもう、嫌だな。変に理由のない苛々に押し潰されそうになって、首を掻き切りたくなって。流石に、数少ない友達の前で自暴自棄になったりはしないけど、さ。けれどたまに悠理の、その全てを悟りきって受け入れてるような凪いだキレーな顔を、張っ倒したくなることもある。何で。お前の方がよっぽどヤバイ状況にあるだろうにさ、なんで俺の方がこんな、ねぇ?惨めな気分にならなきゃなんないの。
「・・マジ不毛、不幸自慢かっての」
分かってる、そんなの。でも、暴いて、壊したくなるんだ。気丈さとか、大人ぶったものとか、常識とか、そういうの、全部。
恐怖にひきつって怯えた顔を、見せてよ。理不尽な思いをさせられてるのは俺だけじゃないって、思わせてよ。俺はどうしたらいい?お前の事、殴って、蹴って、追い詰めればいいかな、お前の弟がしてるみたいに、さ?
苦しくて、溺れ死にそうな時みたいに、息ができなくて。だから俺は、視神経を焼くような夕日に立つ“憎らしい大親友”のネクタイを掴んで、机に、衝動のままに引摺り倒して───
「痛い、孝介」
廊下の突き当たりにある理数科教室の、静けさのなかに。ふと、壊れて軋んだ機械人形から鳴りそうな、掠れて苦しそうで、それでもいつかのような冷静な息が、響いた。声にもならない、錆び付いた無声音。けれど、出ないのにも関わらず「こいつが声で俺を制止しようとした」という事実に、俺の頭は一気に覚めた。中3の末に声を突然失った悠理が無理にでも声を出そうとした意味の重さを、俺だって分かってない訳じゃないから。
衝動が消え、代わりに重く冷たく体を濡れさせてくるのはそこはかとない虚無感だった。知ってる、こんなの単なる八つ当たりだって。別に誰が悪いわけでもなく、単に己の不幸を他人に押し付けたかっただけだ。ぱっと手を離すと、悠理は呆れたように普通に起き上がり、首に絞め跡が付いたらどうする、性癖と誤解されかねないから勘弁してくれ、と苦笑いしながら手話でそう言った。あぁ、怯えさせるなんて馬鹿げた話だ。そんな男じゃないからこそ、俺はこいつと友達でいれてるんだろうに。
「・・・ごめん、別に、そういうんじゃなくって、」
『知ってる。だから怒ってない。お前が頭痛で不機嫌になることなんか珍しくもなんともないからな、中等部の時は本気で一度殴られてるし。基本、論理無しに行動するタイプじゃないだろう、お前』
「・・・や、でも、・・なんつうか、それ分かってて、さ・・」
多分、こいつなら八つ当たりしても怒らないだろう、的な。暴力的な衝動の裏側で、打算の演算も同時進行、とか。カッとなってやった、とかそういうのの方がまだマシじゃん、俺のこれは既に、計画的犯行、とかそーいうやつなんだから。そう思った瞬間、自分の行動とその意図が、まるで犯罪者のそれのようで、急に、怖くなった。
・・目の前が真っ暗で、もう、思考の落下が止まらない。なんて最低な人間なんだろ。握りしめた鎮痛剤入りの存在を思い出して、これを全部飲んでしまえば、楽になれるのかな、こんな自己嫌悪やおぞましさから逃げられるのかな、なんて考えて、また皮膚を切りたくなって、無性に血を見たくなって、痛みが欲しくて、目眩が、して、息が。首が、絞まる。
とん。
左肩に手が乗った。
「・・・っ、あ」
息ができる。呼吸が。水の中から引き上げられたときのように、俺はひゅ、と咳き込む。
『考え過ぎだ、誰もお前の事を責めてなんかいないだろう』
顔を上げると、既に鞄を持った悠理がそう言ってきた。無音だけれど、全部分かってるから、とかそんな風に言いたそうな感じは伝わってくる。首を絞めてくる見えない手が消えていくのを感じながら、俺は息を整えようと息を深く吸い込んで、また噎せた。
「・・、分かってる、待って」
咳がいちいちこめかみに響く。ずきずきとはし始めてきているが、それでも先程より苛立ちのような何かが消えた分、楽だ。
あぁ、頭が痛い。
こんなの、もう全部消えてしまえばいいのに、とか何度そう思ったことか。
でも、そうしないのは。勿論、じいちゃんとかばあちゃんとか、そういうのもあるけど。きっと、同じように、標準から外れてしまった諸刃の剣な奴らと出会えたからなのかな、なんて。まぁ、言わないけどさ。
『なんだったら送ってくぞ、一人で帰らせたら途中で倒れてそうで怖い』
「ヘーキだって、まだそんなに痛くないし。つか湯浅は?」
『樋口先生から呼び出し食らってるから先に帰ってて、だとさ。さっきLINEが来た、長引きそうなんだと』
「アレはアレで化学だけ授業サボり過ぎなんだよ、馬鹿だなァ・・」
『仕方ない、馬鹿なんだから。それより日誌、職員室に置いてこないとだから、頭キツかったら玄関で待っててくれて構わないぞ』
「あー、ダイジョブ、ついてく・・でも明日休むかも」
『無理はするなよ、俺じゃお前のこと運べないから』
「うるせぇ、ちびっこ」
ほら、と鞄を渡してきたこの男だって、自分の頭のせいで双子の弟から恨まれて、声まで失ってるのだ。仕方がない、多分こういう定めなんだもの。でも、それくらいの方が、楽しいのかもしれないから。
「早く行こうよ、失声症の数学者、サマ?」
椅子を蹴って片付けて、鞄を受けとる。思いの外元気じゃないか、と嫌そうな顔をした悠理の背を叩いて、俺はそっと手の中の鎮痛剤をポケットに突っ込んだ。