In Each Case
Case1 幸田雅人の場合
「人生において、十代後半っていうのはとっても大事な時期だから。俺は、みんなの高校生活を健やかで楽しいものにしたいんだ。」
私立中高一貫校の日本史教師、幸田雅人の場合。
「はぁい、席についてー。ほら、出席取るからぁ」
月曜日、午前8時35分。朝のホームルーム前の教室の騒がしさは、笑顔一つですっと静かになる。39人の可愛らしい生徒たち。俺はこの小さな箱庭の羊飼いのようなものだ。
胸ポケットからボールペンを引き抜き、出席簿を開く。今日の欠席連絡は篠田幸歩、か。時期外れの急性胃腸炎だということだ――放課後にでも見舞いの電話を入れてみようかな。
「うん、篠田以外はみんな今日も揃ってるね。それに、遅刻者もゼロ。偉い偉い」
何気なく発した言葉に、一人、生徒の肩が揺れた。生傷の絶えないやんちゃな茶髪ピアスの、松尾修平。――けれど、本当はとっても素直なんだよね。昨日までは遅刻ばかりで平気で授業もサボるような子だったけれど、“多分今日からは”、そんなこともないはずだ。現に、今ちゃんとホームルームから学校に来ているもの。褒めてあげなくちゃあ。
松尾が、おどおどと顔を上げた。さっき少し教室が騒がしかったのは、彼の変貌ぶりに生徒たちが驚いていたからだろう。そうだよね、机の上に平気で足をのせてたような男の子が、突然借りてきた猫みたいに大人しくなったんだもの。目が合ったので笑いかけたら、真っ青な顔で逸らされてしまった。やだね、“俺は”何もしてないのに。
松尾の少し汚れた制服。俺もスーツが一着駄目になってしまったけど、雨が降ったときの為に元々替えを学校においてあったから、既に着替え済みで特に問題は無い。むしろスーツ一着で人助けができたと思えば、安いものだ。
というのも。いつもより一本早い電車に乗ったため遭遇したことだったのだが、快速列車の接近する乗換待ちの駅で、この松尾という生徒が線路に転落したのだ。通勤通学ラッシュで混雑するホームで、逆側に上り電車が到着し、さらに乗客が下りてきて歩くのすら困難になる程人があふれかえった時、ある女子高生グループの一人が転倒したのが原因だ。そこからドミノ倒しのように乗客が転倒し、最前列でスマホを触っていた松尾が運悪くホームから転落したと、そういう状況だった。
松尾が転落したのを見た俺は、後を追って線路に飛び降り、腰が抜けたのか動けなくなっていた彼をホーム下の退避スペースに急いで引きずり込んだ。誰かが非常停止ボタンを押してくれたようで、下りの快速電車は俺達の滑り込んだ退避スペースから20mほど手前で停止したため互いに怪我も無くホームに上がれたのだが、もし非常停止ボタンが押されるのが少しでも遅れていたら、もし俺が線路に飛び降りていなかったら、松尾の命は間違いなく木端微塵になっていただろう。
「さて。連絡という連絡も特に今日は・・ないかな。あ、一応帰りにも言うけど、明日は短縮5限授業で、6限の時間は草取りだから、みんな虫よけスプレーとか必要だったら忘れないようにね」
事務連絡をしつつ、時計を見る。警察が後で学校を訪ねてくると言っていたか――メディアも来る、なんて言ってたっけ。思いのほか大事になってしまったのはある意味失敗と言えるかもしれないが、“地元の有名私立高校の教師が、ホーム下に転落した教え子を救助”なんてね。誰にも怪我は無かったのだから結果は上々だろう。
危うく電車に撥ねられかけた松尾自身は、救急隊に様子を確認された後、頑なに学校へ行くと言ってきかなかった。こんな目に遭った日くらい休んでも構わないと言ったのに、随分と退避スペースで説教したのが応えたらしい。元は、健気な性格なのだ。両親の不仲から少し荒んでしまっているというだけで。
でもね、松尾。親がどうだろうが、人として真っすぐあれるかどうかっていうのは本人次第なんだ。学費払ってもらって私立の中高一貫校に通わせてもらってるんだもの、どちらにしたって学校サボってたなんていったら親御さん悲しむよ?
俺は笑顔で優しく言い聞かせた。それに、そんなに悪い事ばっかりしてたら、いつか罰が当たるかもしれない。今日だって、“たまたま”助かったから良かったけど。
『“次は”、死んじゃうかもね?』
するりと指先で撫でた松尾の頬は、まだ子供のように滑らかだった。そう。無理に悪ぶることは無いんだ。
死の恐怖の前には、皆赤子同然なのだから。
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俺は、何も行動してはいない。ただ、女子高生グループの一人にそっと微笑んだだけだ。あの集団が俺の容姿を見てきゃあきゃあとはしゃいでいたのは知っていたし、そのグループがいる時間帯に松尾が同じ駅で乗換待ちをしているのも、学校に提出される家庭環境調査票から通学経路を考えれば容易に割り出せることだったというだけだ。
あとは、ホームの構造。1本のホームの両側に下り列車と上り列車が発着する構造では、どちらかの列車の到着直前に逆サイドに列車が到着した場合、次の列車を待つ乗客と到着した列車から降りてくる客でホームはさらに混雑する。特にこの女子高生グループと松尾が駅に現れる時間帯、上りホームに到着するのはこの駅終着の列車なので通勤通学ラッシュも相まってホームの人口密度は大変なものになるのだ。
そんな中、“たまに電車内で見かける優しそうな顔のイケメン”が、そっと微笑みかけてきたらどうだろう。女子高生グループは有頂天になり、おしくらまんじゅう状態のホームだろうがお構いなしに騒ぎ出す。そして、そのうち一人が通行人に足を取られて転倒した。あとは、お察しの通りだ。
常日頃からスマートフォンの画面をよく見ている松尾が、駅のホーム最前列でも同じように周囲に注意を払っていないであろうことは予想が付く。あとは、松尾の転落後にタイミングを計って線路に飛び降りれば、全てが完璧だ。俺の箱庭には従順な羊しか要らない。反抗的な狼が紛れ込んでしまったのなら、鞭で従えることだって時には必要だろう。それにしても、少し刺激的過ぎたかな。彼、どうも震えが止まらないみたいだ。
「さて、ショートホームルームはこれでおしまい。1限は・・化学基礎だね。そういえば、化学の樋口先生がここのクラスだけワークの提出率が悪いって嘆いてたからちゃんと出すんだよー」
ぱたん、と出席簿を閉じ、俺は生徒たちににっこり笑いかける。明るい教室はまず教師の笑顔からだ。特に、この文系クラスは派手な女子が多いのでうっかり扱いを間違えると学級崩壊もいいところになってしまう。皆には楽しい高校生活を送ってほしいからね。
「よし、今日も元気に頑張ろう!」
狼は従順な羊となり、箱庭はまた平和に戻った。こういった小さな問題を一つ一つ解決していくことが、円滑な学級運営の成功の鍵なのである。
今日も、クラスは穏やかだ。