夢 (前)
前編おしまい。物を直すには一度徹底的に壊してみるのも一つの手なのかもしれない。
::::::
「・・・、・・・・ッ、おい、テオドール!」
わっさわっさと揺さぶられる感覚に無理やり意識を追い付かせると、出し抜けに頭をスパァンと叩かれた。衝撃で半分椅子から落ちそうになっているところを、ぐい、と引き上げられる。何と乱暴な起こし方、と思ったところで、自分がうたた寝していたことに気が付いた。・・・・とても、夢見が悪い。
声の主―――というか、いきなり頭をブッ叩いてきたのはベリエスだった。手には分厚い書類を持っており、・・・ああ、あれで叩かれたのか。
「うなされてたから、起こしたんだけど。ほら、拭きなよ」
「え、・・・あれ、泣いてるよ、俺」
「しばらく黙って見てたけど、絵面的にはなかなか悪くなかった」
「だったら早く起こせって。あともうちょい優しく頼む」
デスクチェアに座りなおして、差し出されたハンカチを受け取る。涙をぬぐいながら、思わず頭から出血していないか確かめてしまった。
ものすごく、疲れている。昼下がり、日の差し込む屋敷の医務室は結構昼寝に最適で、・・・最適だったからまぁ昼寝をしてしまったんだろうが、これじゃあまるで逆効果だ。ため息をつきながら、机上の眼鏡を掛ける。ぼやけた視界が途端に彩度を取り戻し、ベリエスを映し出した。
窓辺では、遅咲きのダリアが見ごろを迎えている。
「・・・・昔の夢?」
「ああ、うん。小さい頃の夢。・・・・良く分かったね、基本俺らみんなトラウマ地獄みたいなもんなのに」
あはは、と冗談めかして言う。この手の事は、決して真面目な雰囲気で口にしちゃあいけないのだ。でないと、元から傷だらけだった所に叩き込むようにあんな出来事があった訳だし、・・・・また誰かが壊れたら、大変だ。
という暗黙の了解を、ここでベリエスは突き破った。
「へブル人への手紙」
息が、時間が、止まった。
胸に鋭い痛みが、走る。
「・・・・・・、あのさぁ、ベリエス。分かってんでしょ、そういうの無しだって」
ベリエスは真顔だった。声も、真剣で。ベリエスは強い。腕っぷしじゃない、精神が、だ。だから俺みたいな日陰者には、あまりにもその強い目線は眩しすぎて。
顔を逸らす。それは言っちゃいけない。埋めとかなきゃならないものなんだって、お前だって分かってるでしょうが。
「だったよね、確か。最初にお前にこれ聞かされた時驚いたよ。新約聖書全部暗記してる奴なんて見たことなかったもの。しかも当時12歳でさ」
「・・・お前は刺すだけ刺しといて放置プレイと洒落込むのがホント御得意だよね。あー意地が悪い。真守君に嫌われても知らないよ」
「大丈夫、彼にはこんなことしないから」
「・・・・・。」
束の間の、沈黙。そして、苦い笑い。不思議な作りのジャケットの内ポケットから普段は吸わない煙草を取り出したベリエスが、この話の流れでライターある?とぬけぬけと聞いてきた。俺も、普段は絶対にそんなことしないけれど、舌打ちをして白衣のポケットからアンティークのライターを取り出す。無論、あの時のライターとは全くの別物だ。
「・・・・俺にも一本頂戴」
「いいよ。・・・・シガレットキスでもする?」
「火付けるの面倒だしそうする」
挑むような視線に、妖艶さで返す。存外短気だよね、と一本手渡され、人差し指と中指の間で挟んで受け取った。絡む視線。暗さの付きまとう午後の医務室。まずベリエスが自分の咥える煙草に火をつけ、続いて俺が、その先端に自分の煙草の先を触れさせた。
そっと、息を吸い込む。小さな赤が乗り移る。火柱が立つかな、などと馬鹿なことを考えて、すぐに打ち消した。もう23年も前の話だというのに、一体俺はいつまでこんなことに囚われているのやら。・・・後悔などしていないはずなのに。むしろ、誇らしくさえ、思っているはずなのに。
「・・・アレはさ、不幸な事故だったと俺は思うよ。現場見たわけでもないけどさ、・・・それが、お前の傷だってのも知ってるけど、さ。でも、このままヨハンに誤解され続けてるお前を見てるのは、正直辛い」
「・・・・いいんだよ、俺が憎まれてる分には―――というか、俺も怖いんだ。どんな親だったとしても、俺は、ヨハンから両親を奪ってしまったんだから。これ以上憎まれるのが、怖い。だったら、意味も分からずやたらブラコンで過保護、とかそれくらいに思っておいてもらった方が、よっぽど良い。身勝手な兄だよ、俺は」
「それでも・・・・!だって、お前、親父さんのことあのまま放っておいたらヨハン、殺されてたんでしょうが・・・・」
「はは、何でお前の方が悔しそうなんだよ。俺がいいって言ってるんだからいいじゃないの。それに、事実は事実として変わらない。俺は、確かに自分の両親を殺して、家に火を放ったんだから」
言葉の重みをなぞるように、一言一言吐き出す。まるで酸素濃度の低い空間にいるかのように、息苦しい。
ベリエスが俯いた。長い前髪が、端正な彼の顔に影を落とす。屋敷の裏の鬱蒼とした森から、鴉がどこか不吉な鳴き声を上げた。
よく考えれば、それが始まりだったのかもしれない。
突然、けたたましい陶器の割れる音が廊下から聞こえた。驚いてベリエスと一瞬顔を見合わせ、すぐさま駆け寄り、蹴破るようにしてドアを開けた。
人が、立っていた。
後ろから、鈍器で殴られたかと、思った。
「・・・・・!?」
「・・・・・ヨハン、っ?」
弟が。いた。
血の気の引いた顔で、目を見開いている弟が。
床には、粉砕したティーポットとカップ。
広がった液体から立ち上る、湯気。
息ができない。呼吸が狂った。否、狂ったのは頭か。知らず、知る由もなく。
やけど、とベリエスが伸ばした腕を、ヨハンが振り払う。
「兄さま、ねぇ、今のお話、どういうことです」
世界が傾いた。
「ねぇ、殺したって?兄さまが、私たちの、両親を?」
息苦しさが。動悸が。吐き気が。
「嘘でしょう?」
この上ない、真っ暗な絶望が。
「兄さまが、兄さまが、」
覆い尽くす。
「 こ ろ し た の ? 」
俺と同じ、マゼンタ色の瞳。死んだ瞳が、真っすぐこちらを見ている。
ベリエスが、何かを叫んだ。聞こえない。もう、何も聞こえない。
「ああ、そうだよ」
そういえば、ダリアの花言葉には、裏切り、というのがあったな。
意識が、落ちた。