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捻くれ少年の回想集

​ー初日ー

​『錯綜』の薫ちゃんの話。タイミング的には本編1の後。パワフルなおばさんっていいと思います。

「ただいま」

 3LDK、廊下までついているだだっ広いマンション。玄関すぐのガラス戸からは明かりが漏れていて、お帰りなさい、と奥から聞こえてきた。ローファーを脱いで揃えると、磨かれた革靴が置いてあるのが見えて、黒沢薫はため息を吐いた。

「お疲れさま、薫さん。新しい学校はどうだった?」

 カウンターの奥、キッチンから味噌汁の椀を持って現れたのは、わざわざ京都の本邸から着いてきた家政婦の富子さんだ。齢五十前後、見た目はどこにでもいそうなおばちゃんだが、薫が生まれる前からずっと黒沢家の厨房を取り仕切ってきたらしいベテランで、しかも料理だけでなく家事一式全部こなす。

 この度住み慣れた京都から関東に越すにあたって、食事の味が変わるのは良くないからと言い張り、子供が巣立ったあとの未亡人という軽い立場をいいことに一緒にこちらに移ってきてしまったのだ。

「うん、まあまあやな」

  適当に返事をする。本日の夕食は里芋の煮物、焼き魚は…秋刀魚か。そこに添えられたお新香と揚げ出し豆腐。暖かいもので固めたらしい。

「そう。ご馳走にしようかと思ったんだけどね、薫さん、今日は疲れてるかと思って。あまり胃にきつくないものにしましたよ」

 テーブルにたん、と汁椀が置かれる。肉を食べたいほどの元気はなかったから丁度良かった。ついてくると言い出したときは正気を疑ったが、実際見知らぬ土地で暮らしてみると、話が分かる人がいるというのはやはりいいものである。

 あら、と富子さんが突然声を上げた。そしてこちらをまじまじと見、まあまあまあと近寄ってくる。

「なんや、富子はん」

「今日、女の子の制服だったのねぇ。ネクタイは男物?」

「いや、女子もネクタイらしゅうて」

 それを聞いているんだかいないんだか、富子さんは難しい顔をして唸りながら数歩下がった。どうすればいいのか分からなかったのでとりあえず鞄を床に置くと、あ、わかった、と富子さんが手を叩く。

「薫さん、スカートの丈がちょっと長いわね」

「えっ」

  確かに、冷大附属時代はもう少し短かったが、まさかそれに気付かれるとは思わなかった。

「せやし、一応学校は今日が初日やろ。あんま目立ったらあかんかな、って、そこいらの子ぉらとおんなじくらいにしといたんやけど…」

「だめだめだめ。あたしはね薫さん、前からもっと短くてもいいと思ってたのよ。長いのも悪くないけど、もったいないじゃない」

  せっかく長くて綺麗な脚なんだから、と遠慮なくじろじろ見られ、なんだか恥ずかしくなった。

  というか。

「普通そこ、長くせぇ言うとこやろ」

  今でも絶対的に見りゃ十分短いわ、と一応抗議?してみるが、富子さんはどこ吹く風だ。いやまぁ、確かに俺は男やけど。せやから気にとかせんけど。

 

 …………分かったわ。

 

 カーディガンの裾から手を突っ込み、スカートを1つ巻いて短くする。これでいいかと腕を広げて見せたが、富子さんの顔は曇ったままだ。

  まだ上げろと。

  何やこの状況、と薫は苦い顔をする。仕方ない、もう1回スカートを巻いた。

  襞を整え、どうでっしゃろ、と再度腕を広げる。すると、奇声とも歓声ともつかない声が上がった。

「そうよ薫さん、これくらい短くしなきゃ!カーディガンは黒より薄茶色の方が良いわね。ソックスもあの厚っこいやつなんかじゃなくて…」

「チェック織り、アルマーニ特注のアレな。富子はん、分かったさかい夕飯食わせたってや。折角作って貰たんが冷めてまうし、父親が連絡すんの遅うなるとうるさいんよ」

 そう言うとようやく富子さんは大人しくなって、そうね、早く連絡してあげなきゃね、と――結局すぐにあせあせとしだした。

 ほんま、ようやるわ。

 何事にも一生懸命に生きている人だ。基本的に女と言えば、普段こんな格好をしてるのであの母か富子さんくらいしか知らないのだが、女とは皆がこう、熱血に生きているものなのだろうか。性自認すらあやふやな自分がこんなことを言うのも滑稽な話だが、たまに富子さんのパワーに圧倒される。

 富子さんが時計を見上げた。

「あら、もうこんな時間。あたしも帰ってご飯作らないと」

「今日もありがとうな、富子さん」

「良いのよ良いのよ。あ、そうだ、プリン安くってね。二個入りで、あたし1つしか要らなかったから薫さん食べて」

 食材や日用品の買い出しなども全部、あらかじめ経費を渡しておいて富子さんに任せているのだが、度々富子さんはこうして、彼女自身のお金で何か買ってきてくれる。その分も払うと薫は再三言っているのだが、それが楽しみなのだからいいんだ、と聞き入れてもらえない。気がいいというかなんというか、子でも見ている気分なんだろう。受け取るのも礼儀だと思い、ありがたく頂いている。

「毎度、堪忍な」

「どういたしまして。さて、あたし帰りますね。お弁当のおかずも作って冷蔵庫の中だから、面倒だろうけど洗って、それだけね」

「食洗機付きのええ部屋借りてもろとるんや、なんてことあらへんよ。……気ぃつけてな」

「はいはい、ありがとうございます。じゃあまた明日、お邪魔しますね」

 エプロンやらが入ったトートバッグを手に、富子さんが去っていく。やがて玄関の戸が閉まる音が聞こえて、静寂が訪れた。

 母も父もいない。それは本宅でも同じだったが、1ヶ月前に契約されたばかりのマンションは、味気なく、また親しみもなかった。

 

『向こうは朝晩の気温差もそんなにないらしい。一人暮らしになるが、家具家電全部付いたマンションだ。静養にはもってこいだし、何より関東圏ならまた薫に何かあっても、お父さんすぐに飛んでいける』

 

  放課後の密事の最中。いきなり出た酷い喘息の発作。京都のなかなか緩まない冷え込みのせいか、埃っぽい用具室のせいか、はたまたそのとき相手をしていた体育教師が激しくしすぎたせいか。突然息が止まり、咳き込む余裕すらないまま呼吸困難に陥った。理由など分からず、筋肉質な男性教師が狼狽えるのを霞む視界でただ見つめていた。

  次に目を開けたのは病院で、点滴のチューブやら呼吸器でがんじがらめにされていた。やっと目を覚ましたか、と泣きそうな顔の父親がいて、実際、泣かれた。件の体育教師は何も言わなかったらしく、廊下で倒れているところを見つかった、ということになっていて、後で教師が見舞いに来たときに、おりこうさんやね、と囁いてやった。

  その間に転校の話は進んでいたらしい。よく分からない問題を解けと言われるがままに解いたのを覚えているが、あれが編入試験だったというのを知ったのは最近だ。

  息子を溺愛する実業家の父親。薫がしていた教師たちとのインモラルな行いについて東京の父親は知る由も無いだろうが、それでも学校側など、やはりなにかしら考えるところがあったのではと、思う。

 はっと我に返ると、もう7時を回っていた。はしたないとは知りつつも、急いで夕食を食べあげて弁当ごと食洗機に放り込んだ。

 洗剤をいれ、スイッチを入れる。父親とスカイプをするためにパソコンを起動させに行こうとしたその時、ふと今日出会った男の顔が頭に浮かんだ。

「北村、ゆうたかな」

 下の名前は確か爽。名前の通りやたら爽やかそうな男で、いかにもな人気者、といった印象を抱いた。

「親父に、話してみるかなぁ」

 いきなり上着を脱ぎ捨てても、ただ唖然としていた清々しいほどのアホ面。女装、なんてもっと気持ち悪がられると思っていたのに、変な奴だ。

 食洗機が回り始める。1人の部屋と機械音は、何故かこの上なく調和して聞こえた。その隙間から微かに漏れる寂しさを無視して、パソコンを起動する。

 これから、どうなるんやろ。また先生らのこと黙らせんとな。明日はどっちの格好で行こか。男子の制服で行くんなら、シャツとカーディガン間違わんようにせなあかんな。

「あー、めんど」

  何からおかしくなったのかなんて今さら考えても仕方がないし、今さらどうにかなる訳でもない。今のところ一番大事なのは、明日をどうするかであって。

「よし」

 キッチンに戻って電気湯沸し器をセットする。スカイプを起動したって父親はすぐにレスポンスしてくる訳じゃないから、それまでにはお湯も沸くだろう。煎茶でも飲みながら話せば、きっと気分も落ち着くはずだ。

 明日も頑張らな。一つ目を閉じて深呼吸すると、にしてもこのスカート丈は流石に短ないかな、と苦笑し、薫はテレビ電話のためのインカムを手に取った。

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