ラディッシュの葉と愛の形
続きです。
静かにクラウスがティーカップを置く。
「どうして、兄の腕と分かったんです」
そんなクラウスに、ヨハンは問いかける。確かに自分も兄も、女性のように腕は細いし、兄の場合は傷も多い。だがそんなの別に世の中ならばない訳ではないだろう。思考を読ませない、輝きながらもどこか虚ろな瞳が、こちらを向いて薄っすら笑った。
「そりゃ、分かりますよ。指先の形がまるで同じです。それに・・・」
壁、今はカーテンで仕切られている保管庫を、クラウスが振り返る。
「どの角度から見ても、一番手先が美しく見える形。エンバーミングと中性緩衝ホルマリン固定を組み合わせた決して形や色の崩れを許さないやり方。アレって自分で思いついたんですか?普通に一般的な方法じゃないですよね、コストも手間も半端なくかかるでしょう。しかも生体の固定というのは時間が勝負ですから、恐らく丸一晩寝ずの作業だったはず。循環系の末端である手先など、防腐剤の注入も面倒だったに違いないし。となると、貴方がそこまでの狂気じみた執念を見せつけるような相手、といったら、一人しか私には思いつきませんよ」
「貴方こそなんでそんなこと知ってるんですか・・・」
完敗だ。まさかそこまで読まれていたなんて。この際クラウスの化け物じみた知識量などどうでもいいが、問題はそれが“どこまで広がっているか”ということだった。
「・・・大丈夫ですよ、テオドールはおろか、他の誰にも言ってませんから。金輪際言うつもりもありませんしね」
「・・・・」
心を読んだかのように、クラウスが2枚目のクッキーを手に取りつつ言う。安堵している自分が、とても惨めだった。
数か月前の大きな抗争での話だ。普段は後方でメディックとして動いていることの多い兄テオドールまでもが前線に駆り出されるほどの激しい銃撃戦の中、共闘を強いられていたヨハンとレオンハルト、そしてテオドールがいたその場で、相手の流れ弾がたまたま道端のガソリンのドラム缶に当たったのだ。見切ったレオンハルトが兄の白衣を引っ掴み、ついでにヨハンを引きずり倒すようにして後ろに転がり飛んだまでは良かったのだが、その時、兄の左腕が爆風で吹き飛んでしまった。・・・相手が全滅だったことを考えれば、こちら側の損傷が兄の利き腕一つで済んだだけマシだったと言えばそれまでなのだが、・・・煙と焦げた肉の匂いが立ち込める路地裏、白衣を鮮血に染めて腕を押えてうずくまる兄と、その先に千切れ飛んでいた腕を見たなり、ヨハンの中で本能が絶叫を上げた。
『あれは、私のものだ』
決して誰にも渡しはしない、と。
結局、抗争の最中で顔に切り傷を負っていたヨハンを見るなり、躊躇うことなくテオドールは自分の首を搔き切って『ハデスへの禁忌的反逆』を発動、その結果として顔の傷は綺麗に消え失せ、兄自身も一度『死んだ』ことによって左腕は再生した。あまりにも唐突に、しかも前触れなく“自殺”を図ったのできちんと魔法が発動するのか心配で、泣いて兄の“遺体”に縋ったのはよく覚えている。結局それも杞憂に終わり、数分後には兄はいつもと変わらない様子でそこに立っていて、首領たちに状況報告をしていたので、何も気に病むことはなかったのだが―――元通りになったとはわかっていても。とっさに低温遺体保管庫に放り込んだ兄の左腕を、ヨハンは処分することができなかった。
早ければ早い方がいい。ヨハンはその日屋敷に戻らず、抗争後の静かな拠点の地下の処理室で徹夜で作業を進めた。断面のそぎ落とし、表皮の消毒、血抜き、防腐剤注入。急がないと死斑が出てしまうし死後硬直で思うように形が整えられなくなる、だが決して作業一つ一つに手を抜いてはならない、という二律背反の強迫じみた脳の命令に、眠気さえも吹っ飛んでいた。
エンバーミングの段階まで終わったところで、続いて爪の形を整え、磨いた。ここまで40分余り。タイムリミットとしては大変ギリギリだったが、何とか生前のものとほぼ同じように、汚れも何もない状態で、固定作業に入ることができた。
長期保存の際の美しさを考え、コストを犠牲に中性緩衝ホルマリンを使用した。浸透が遅いのは事前のエンバーミングでカバーし、温度管理にも神経質なほどに気を使い、結局全工程が終了したのは夜が明け、とうに昼を回ったころだった。クリスタルガラスの保存容器は、標本を屋敷に持って帰って保管庫の棚に並べてみてから、発注を思いついた。単なるガラス容器ではやはり多少くすんで見えるし、何より味が無い。何がここまで自分を駆り立てているのかは分からなかったが、このために飛んだ十数万の出費など、痛くもかゆくもなかった。
今ではもう、丹念に容器を柔らかい布で拭くのが、日課になっている。
「何故って言われても、私にもわかりません、が、そうせずにはいられなかった。・・そうとしか言いようがありません」
語り終えたヨハンに、クラウスが目を細める。
「貴方のそのマニアック精神、いっそ学者にでもなった方が幸せだったんじゃないかと思うほどの事もありますからね、それが興じたものなんじゃないでしょうか。そこに、実兄の腕が目の前で吹っ飛ぶ、なんていう“人間的な視点で見たら明らかにショッキングな光景”があった訳ですから。気が動転してもおかしくはないかと。先ほどはそれを“狂気じみたほどの執念”と表現しましたが、それは違うかもしれませんね」
「いえ・・・、正直私にもさっぱりなので・・・。ただ、兄の腕を扱っているとき、確かに私は――――――」
確かに、私は。この先の言葉が、上手く見当たらない。使命感に駆られていた?いや、そんな受動的なものでは無い。もっとこう、・・・・ダメだ、分からない。
おや、と壁にかけてある時計を見て道化が声を上げた。
「もう3時ですか、夕飯の下ごしらえをする約束をさせられていたんでした。ヨハンも是非、と言いたいところですが、貴方キッチン出禁でしたね」
「え?ああ、そうですね、私は遠慮しておきます。また何か爆発したら面倒なので」
「ならクッキー持っていきますので、そのままリヴィングに移動したらどうです?どうせ作りながら適当におやつタイムになるでしょうし」
「ええ・・・じゃあ、こっちを片付けてから、向かいます」
何となく、感覚を汲んでくれたのかもしれない。あまり深いところまで踏み込まず、さらっとクラウスは引いていった。正直拍子抜けだ―――もっと好奇心のままに、色々と自分でも見たくないものを抉り出されるものだと思っていたのに。そういえば彼の瞳は青かった。となると、ついさっきまで話していたのはEins・・思慮深い性格のはずだ。これが赤い瞳のZweiだとしたら、容赦なく攻め立てられていただろう。ちょっと安心だったかもな、と、ヨハンはクラウスを見送った。
後ろの壁を振り返る。ぶち抜いた穴はそのまま、その上からカーテンをかけてこちらの部屋から中身が直接見えないようにしていた。窓もない、何のために作られたのかさえ分からない小部屋。かつてのこの屋敷の所有者の性格を考えると、あそこで数人くらい死んでいたとしてもおかしくはないよな、と思う。が、今あの薄暗い空間の中に浮かんでいるのは、臓器や指や腕だ。生きていた者を、そのまま切り取るように。決して殺しはしない、死体を保管しているんじゃないのだから。兄の腕だってきっとそうだ、殺すわけにはいかないから。生きたまま切り取って保管している、それだけのこと。それ以上もそれ以下も、無い。
飲み干された紅茶のカップを盆にのせ、簡単な水場に向かい、泡立てたスポンジで丁寧に洗う。陶器の硬質な白さに一瞬標本の硬化した皮膚を重ねて、ヨハンはすぐに打ち消した。
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クッキーの皿を持って、キッチンに戻る。他の個人の部屋には水道があっていいな、と思う。クラウスの部屋にはない。代わりにあるのは、頑丈な鉄格子だけだ。
先客がいた。話題の、テオドールである。
「おや、帰ってたんですか。てっきりに長丁場になるみたいなこと言ってたので、夜になるかと思っていたのに」
「それが案外さっくり終わっちゃってね、俺も拍子抜け。ターゲットが、何か裏を読んでくれたらしくって、俺の予定してた潜入ルートから警備外して全部裏口に持ってっちゃってたんだよね、護衛をさ。だから廊下がら空き。普通に正面からこんにちはしたけど、人っ子一人会わなかったよ」
「ラッキーだったじゃないですか、ということは直帰ですか?」
「許可出たからねー。さっきシャワー浴びて、これから夕飯の下ごしらえ始めるってレオンに聞いたから、手伝おうかと思ってこっち来たところ」
「お疲れでしょうに、休んでてもいいんですよ」
「あんまり年寄り扱いしないで頂戴。一人やって疲れて動けないようじゃあクビになっちゃう」
エプロンまで着用済みということは、本当に手伝う気満々なのだろう。まぁ、止める理由もない、か。夕飯はやたらと豪華なものになりそうだ。
レオンハルトは少し遅れてくるという。クラウスはふと思いつき、カウンターキッチンの向こう側で髪を束ねているテオドールに言った。
「・・・・心配なさらずとも、随分とヨハンから愛されているようですよ、貴方」
「・・・・はい?」
何を突然、とでも言いたげな顔は、今意識の裏で可能性を押し殺したはずだ。そんなわけ無いでしょ、と続けたそうな唇を、クラウスはぶった切る。まぁ、あまり深い事を言うとヨハンが可哀そうだから言わないでおくけれど。
「以前から気になっていたことがありましてね、さっき確かめてみたんですが当たりでした。あとはあの遅れてきた反抗期さえ収まれば、普通に仲のいい兄弟になると思いますよ―――」
「ヨハンに何言った?あんまり脅すような真似しないでほしいんだけどなァ」
急に声に剣呑さが混ざった。マゼンタの瞳が薄っすらとぎらつきを帯びてきている。おやおや、相変わらず。まぁでも、これくらいは想定内だ。
クラウスはへらりと笑う。
「脅すなんてそんな真似してませんよ。脅して吐かせる好奇心より、そのあとの貴方の逆上の方がよほど怖いですから。普通にさっきお喋りをして、その中で薄っすら確かめただけです。ああ、じきにヨハンも来ますから、疑うのなら確かめて下さって結構。貴方が思うような酷いことは何もしてません」
自分でも、よくもまぁここまで口が回るものだと感心する。いや、何一つ嘘は言っていない、言っていないこともあるが。嘘を吐くのは“私”の役目ではない。他者の領分を犯せば、ぼろが出てしまうから。
ヨハンの、テオドールに対する屈折した感情の正体。結論から言えばそれは、執着と愛情だった。テオドールがヨハンに、ウザがられながらも懲りずにぶつけているものと全く同じ。だが、例えばベリエスがライザップ君に向けているような温かいものとは、それは明らかに異なっている。
渦巻き、吐き出す方向を見失い、己のうちにひたがくしにすることしかできなくなってしまった負の遺産。それはやはり、テオドール自身が荒れていた時代とヨハンが孤立していた時代が重なってしまったことによる悲劇とでも言おうか、多感な時期に唯一の兄から見放されていたという事実が生んだ残念な感情なのだろう。・・まぁ、ベリエスと比べるのは流石に酷か。アレの強靭さは人間の域を超えている。
テオドールは悔い、4年の時を埋めるように、立ち直って以来7年近く、見ててこちらが笑いそうになるくらい一心にヨハンに愛情を向けていた。当初は極端もいいところだったが彼自身が恋人を得てからは大分それも穏やかになり、――未だ贖罪のスタンスを取り続けるのは正直言ってどうかと思うが、まぁそれがテオドールの弱さなのだろう。対するヨハンは以前過去を引きずっているというよりかは、多分引っ込みがつかなくなってるとか、そんなところなのだろう。いまさら素直になれない。だから物にぶつけるしかない。先ほどの会話では「きっとそれは気が動転していたからでしょう」などといまいち自分でも事情の分かっていないヨハンを丸め込むようにして会話を切り上げたのは、これ以上の追及は彼を傷つけるだけだと判断したからだ。別に、性急な解決を望んでいるわけではないし、元よりクラウス自身からしたら二人の間の感情などには“興味”以上の興味はない。いずれ時が解決するもの――部外者が迂闊に干渉すべきものでは無かろう、演者としても、そこまで無粋なことをするつもりはなかった。
「・・・ならいいけど。お前時々加減知らないからさ、というか知ってても好奇心で、人が普通ブレーキ踏む所で躊躇いなくアクセル踏むから、ちょっと怖いんだよ」
「それ貴方が言います?ヨハンの事になるとアクセル踏むどころかターボまで入れますよね、崖っぷちだろうが何だろうが」
「そりゃあお兄ちゃんですもの、・・・まぁ、別にヨハンを特別ひいきにしている自覚は・・・あるけど、それでもお前たちの事だってちゃんと愛してるつもりだよ、心配しないで。誰が危なくなっても、きちんと俺は助けてあげられるように後方にいるんだし」
「それはそれは、暴走前提のメディックなんてこれ以上に頼もしい支援はいませんよ」
「大人をからかわないのー。あんまりそんなこと言うと今日のチキンソテー、バジルでもりもりにするよ」
「えっ・・・、大人げないのはどっちですか、嫌ですよバジル」
「不思議だねぇ、Zweiはバジルならサラダでもイケるって言ってたのに」
「一緒にしないでください、というか何ですかそのバジルのサラダって、私知りませんよそんな話」
「一週間くらい前に言ってたよ?自分からムニエルにバジル盛りまくってた」
「嘘!信じませんからね、私!」
「どうぞご自由に。何だったらノートで聞いてみればいいじゃない、多分るんるんで応えてくれると思うよ?」
「想像がつくから余計に嫌!」
言い返したところで、丁度支度を終えたらしいレオンハルトがリヴィングに入ってきた。フランネルのラフなシャツに腰巻エプロン、ぱっと見洒落たカフェの店員のようだが、料理の腕は確実に主婦である。そう、現に彼だって、幼いころからヨハンを―――おっと失礼、はやり無粋な話か。つまり何が言いたいかって、日常、案外いろんなところに愛というのは転がっているものだと、そういう話である。歪んでようがぼろぼろだろうが隠されていようが。落ちた腕を拾うのも埋めるのも、形は違えど愛なのだろう。
ああ、ラヴィアンローズ。何と素晴らしき世界かな!他人事のような語り口をしているが、クラウス自身、過程さえ無視すれば今生の人生はとても幸せだ。家族のような存在にも出会い、見目麗しい恋人もおり、仕事も順調で舞台俳優としての名声もある程度得ている。あえて望むとしたら若干の変化にあふれた日常、それだけだ。例えばこじれた兄弟仲の緩解の様子を楽しんだり、恋人との刺激的な夜を楽しんだり。そんなもので十分なのである。それ以上望むのは、人間の分際で思い上がりもいいところだ。
今度、ヴィルさんにも聞いてみようかな。もし私の腕が引きちぎれたら、千切れた先を貴方はどうしますか?と。きっと常識に則った超平凡な答えか、はたまた常人では考えも及ばないようなとんでもない答えが返ってくるに違いない。ああ見えて彼、結構両極端なところあるから。ご兄弟の方が案外、常識の範疇でぶっ飛んでいる感じがするもの。
髪を纏め上げ、エプロンを身に着ける。チキンソテーへのバジル投入を断固阻止するため、クラウスはキッチンへと向かった。