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興味本位

この後董生はがっつり樋口先生に怒られましたとさ。

いかがわしい様に見えますが全くいかがわしくありません。倫理は無いです。

​孝介が少し可哀想な話

「ねぇ」

 その言葉は優しい声音だったが、裏腹に、その瞳は煌々と輝いていた。サボり部屋、と呼んでいる、旧体育館倉庫のロフト上での話だ。保健室に行くのも微妙、かといって授業に出る気にもならない、そんなけだるい気分の時によく訪れていた俺の秘密基地は、すっかり董生に占拠されるようになってしまった。

 聡明でトーク力もあり、ルックスも良い。いかにも女に人気そうな優等生だと思っていたのに、実際は倫理観の欠けた単なるクソ野郎だ。その好奇心剥きだしの視線を避ける様に、俺はそっと目を逸らす。

「ンだよ、見せねぇぞ」

「えー、いいじゃん、減るもんじゃないんだし」

 乱雑に積み重ねられたすり切れたマットに腰掛け、窓から外を見下ろす。と、一瞬油断した隙に詰め寄られた。ぐ、とのしかかられる。

「ちょ、近いっての、つか乗るな」

「何か孝介っていー匂い、だよねぇ、いつも。服も髪もさぁ」

「馬鹿野郎、どけって」

 不健全な匂いにカモフラージュさせた、凶暴な好奇心。そんなんじゃ騙されねえよ、などと悪態をつくが、余計な恐怖が記憶の彼方から引きずり出されそうになるのも事実だ。そういうの、俺が嫌いだって知っててさぁ、俺が怒るの待ってんだろ。

 分かってる。落ち着け。俺の動揺を誘うために、わざとこいつは俺の嫌がることをしているだけだ。本当の目的はそれじゃない。ただ・・・こいつはただ、俺の腕の傷を見たがっているだけなんだから。

 にしても、気分のいいもんじゃないけど。だから駄目なときはきちんと言わないと駄目な訳で。狼狽えんな、冷静に。俺は董生の体を押し返す。

「嫌だって・・・普通、自分の体の傷なんて誰も見せたがらないし・・、それに俺のは、その」

 リスカの、と言いかけて、俺は何も言えなくなった。恥じてる訳じゃないのに、どこか後ろめたい、とか。けれど、惨めとも違うこの不快な感情すら、目の前の男からしたらどうでもいいことであるようだった。まぁまぁ、となだめるように、だが確実に逃げ道を塞ぐように、董生は俺を追い詰める。

「自分でやった傷、だから?」

 膝の上から、そのさらに上へ。後ろに手をついてバランスをとるが、とうとうよろけてマットに倒れた。男相手に何のつもりだ、なんて威圧を込めて睨みつけながら、内心は声が震えそうになるのをこらえるのに必死で。腕の傷を見られたくない、それもそう、けれど身体で感じる他者の重みに頭上の笑顔、いや違う。これは昔の記憶じゃない、目の前の出来事は現実で、相手はふざけている董生だ。呑まれるな、下らない事に惑わされるな―――

 分かってはいるのに、動けない。発作を起こすほどではないが、董生の笑顔が、胸に置かれた体を押さえつけてくる手が、完全に俺から抵抗する術を奪っていく。喉が引きつり声が出ない。そんな俺のカーディガンの袖を、董生は丁寧に丁寧に、まくっていく。昨日、やったばっかだからまだ傷がいまいち塞がってないのに。怖い、と、いい加減にしろ、の狭間で、俺はただ、ほどかれていく包帯を泣きそうな気持ちで見つめるしかなかった。

 シャツのカフスボタンが外され、包帯止めも外される。まるでプレゼントの紐をほどく子供のようなその顔は、とても残酷だ。畜生。これが董生じゃなきゃ絶対に殴ってるのに。何でこんな目に合わなきゃならないんだ、脱がされるよりよっぽど、怖いじゃねぇかよ。

「は・・・・、も、やめろ・・・ッ」

「やだな、そんな風に言われるとなんだか俺がいけないことしてるみたいじゃない。傷見せて、って言ってるだけなのにさぁ、孝介が変に抵抗するからよろけて押し倒しちゃっただけだよ?」

「俺のせいじゃ・・・、クソ、本当に、」

 怖いから。一言、そう絞り出すと、董生は驚いたような表情で包帯を解く手を止めた。こんなこと言いたくなかったのに。ああ、もう、頭の中ぐちゃぐちゃだ。

 その、嬉しそうな笑み。

「大丈夫だよ、何も痛いことなんてしないもの。ただ、見せてほしいだけだから」

 ああ。もう駄目だ。

 

 その瞳に、全部引きずり出されるんだ。

 

:::

 いけないことだって分かってても、やりたくなってしまう事ってあるじゃない?俺の好奇心は、特に人よりも凶暴で、なおかつストッパーがぶっ壊れているらしい。・・別に、相手を傷つけたい訳じゃないんだけどね。

「・・・またやっちゃったなぁ」

 ひゅ、と浅く呼吸をしながら、顔を左腕で覆って泣きそうな顔をしている孝介。利き手が左だから、右腕を切ってるんだね。そこそこ深くて新しい傷から、じわじわと血が滲んでは白い皮膚に筋を作って流れ落ちる。

「・・・、いたい、・・・」

 少しトリップ気味なその顔も、男の子にしちゃ綺麗なんだよな。そう、発作を起こした樋口先生と同じ顔。心が壊れかけている人は、とても神秘的だ。・・実際にこうして自分の手で壊そうとしておいて、何言ってるんだって話だけど。

「孝介ぇ・・ごめんって、わざとじゃないんだよ・・多分。というかわざとだったとしても傷つけたり壊そうとしたつもりなかったんだよぉ・・だから、戻ってきて?」

 軽くのしかかったりするだけで、普段強気な孝介が簡単に怯えるのは知っていた。何故かというのは、まだ聞いていない。でも、いつもは軽くみぞおちに一発食らわされたりしてやり返されるんだけどな、何でだろう。理性がまだ持っているうちは反応を観察していたが、明らかに今日の孝介は何かが違っていた。

 よく見ると、自分の手にも結構血が付いている。素手で他人の血液に触れてはならない、なんてのは医療現場じゃなくたって当たり前の事だけど・・まぁ、いいでしょ。なんだかんだよく使うからいつも持ち歩いているウェットティッシュを一枚引っ張り出して手を拭くが、ついでにもう一枚出して孝介の右手首を拭こうとして、やめた。確か、傷口に水がかかると猛烈に痛いって言ってたから。これ以上追い打ちをかけて”戻れない所”まで飛ばしてしまったら俺も悲しいもん。友達だし・・・友達相手にこんなことすんなと言われたら、それまでなんだけど。でも血まみれのまままた包帯を巻きなおすのもどうかと思い、俺はそっと孝介の右腕を取って、先を細く折りたたんだウェットティッシュで傷の間の皮膚の部分を丁寧に拭き始めた。

 まじまじと、改めて傷口を観察する。鋭利な刃物でついた傷はかえってくっつきやすいというから、多分ここまで塞がっていないということは、結構使い込んだ刃物で切ったんだろう。壊れた心の中と現実のギャップで生まれるストレスを逃がすための手立て・・・でも、そもそも人間の皮膚は結構緻密だから切れ味の悪い刃物じゃそう簡単には傷がつかない。きっと、昨日の夜は荒れたんだろうな。その程度の事くらいなら、あんまり精神医学の分野をかじったことのない俺にさえ簡単に予想が付く。

 今のところ、開いた傷口の深さの割には大した出血じゃないけど。ある程度血を拭きとったところで、煩わしげに腕を振り払われた。ちょっと痛かったのかな、でもちゃんと戻ってきてくれたみたい。なぁんて思ってたら、強烈な一撃と共に気が付いたら後ろに吹っ飛んだ。首、外れたかと。

「んぐッ、ふ!?」

 みぞおち、ストレート。今肋骨がみしっていった。つかの間の窒息感の直後の咳き込み、ああ、綺麗に入ったんだな。なんて冷静に分析できたのはここまでだった。床に倒れ込み、俺は盛大に噎せる。

「げほっ、おえっ、・・ちょ、ねぇ!不意打ちでみぞおちは無しでしょ、しかも蹴るとか!」

 起き上がって抗議したら、よたよたと孝介もまたマットから起き上がった。凄い、心持ってかれかけてるってのにここまで強い蹴りが出せるなんて、喧嘩にも結構慣れてるって噂も本当なのかもしれない。じゃない。俺はまず孝介に謝らなきゃならないんだよ。

「お前・・・ふざけんな・・・、ホント、何なんだよ・・・」

「ごめん!もう弁解の余地もない!謝る!」

「そこまで潔く謝るンなら最初からすんな!お前に倫理観念が無いのは知ってるけど、ホント流石にここまでされるとさぁ・・・お前、わざとなんだろ、どうせ。見え透き過ぎてて怒鳴る気にもなれねぇ」

 物凄く機嫌の悪い声。低いトーンでさぁ、でもその拍子に目元から涙が零れ落ちて、まだ完全に飛んだ状態から戻って来れてはいない様子。ふらつき、呼吸も浅いし・・これはパニック発作が出そうかな。やがてよろよろと、自分で首を絞めるかのように喉元を手で押さえ出したので、流石にちょっと危ないと思って、俺も頑張って起き上がる。

 いてて。だって孝介ったら足長いからリーチがさ・・。軽くカタパルトみたいに吹っ飛ばされたんだもん、尻もちついたせいか尾骶骨もみしみしするし。そんな痛覚とは無関係なところで俺は下から孝介の表情を軽くのぞき込む。こわばり、瞳孔散大、不快そうな表情、過呼吸にも近い、乱れた呼吸と空咳。これはもう、一度発作を起こさせてしまった方がいっそ早いかもしれない。

「孝介、大丈夫だよ。”もうじきピークは越える”、戻ってこれるから。ゆっくり息をして、・・そう、座り込んでも大丈夫だから。苦しいかもしれないけど、”それで死ぬことは無いから、絶対に平気だよ”」

 バランスを崩して転倒しそうな孝介を支えて、一定間隔でゆっくり背中をとんとんと叩く。身体に決まったリズムを教えてあげることで、心拍数を抑えて安定させることが目的だ。多分難しいことを言っても今は聞こえていないだろうから、ただ”決して死ぬことは無い”という事だけを強調して、ゆっくり語り掛ける。そうすればほら・・・少しずつ筋肉の緊張がほどけて、脱力して座り込むんだ。無事に峠は越えたらしい。

 パニック発作中は、冷静に考えればそんなことあるはずないと分かっていても、どうしても死の恐怖を感じるんだそうだ。ということはこの死にたがりの自暴自棄男にも一応そういうのが残ってるんだなぁなんて考えながら背中をとんとんし続けていると、やがて孝介はまた俺の手を押しのけ、積み上げられた古いマットにぐったりと倒れ込んだ。

「お前・・・対処が冷静過ぎて、キモイ・・」

「あらやだ、キモイなんて言う事ないじゃん。本気で悪かったって思ってるから手を貸したのに」

「嘘つけ。・・知ってるよ、そんなんじゃないでしょ。お前に悪意が無いってのも、分かってっけど・・」

 どうせこれも、観察してただけなんだろ。まだ苦しげな呼吸、空気を求めるかのように上を向いた孝介の目から、狂気と恐怖からそっと汲み上げたような綺麗な涙が、すぅっと零れ落ちる。

「違うよ、観察してただけ、じゃない。観察もしてた、だけ。6割くらいは違うよ、そのうち半分はお前の発作をどうにかしなきゃって対処しようとしてたし、残りの半分は純粋に見惚れてた」

「気持ち悪ぃ。どっちにしろ、社会的に見たら、単なるクソ野郎かサイコパス、だよ」

 言い捨てた孝介は、はぁ、と深く息をついた。目元を乱雑に拭って、鬱陶しそうに長い前髪を掻き上げる。

 多分、それこそ化け物じみた記憶力の持ち主だって言うんだから、多分今日のコレだってその永遠に近い海馬に刻み込まれたことだろう。俺は別に見たいものを見せてもらっただけであって、相手に影響を及ぼすことには興味がない、はずだった。けれど、もし、夜な夜な過去の記憶に苦しめられている孝介が、今度は今日の事を思い出してそれでも必死で正気でいようと痛みに逃げて、だなんてことをするって言うのなら。

 それはそれで、何だか気分がいい、よね。過去からこいつを苦しめる誰かを、俺が上書きできる訳でしょう?

 なぁんて、ね。

「生きようと藻掻いてる人って美しいなって思うだけだよ。スマホのゲームとか赤点とか恋愛とかそういうのもいいけどさ、『そんなもの』でさえ贅沢になっちゃうようなお前とか悠理とか、瑞希とか咲とかさ。そっちの方がよっぽど、美しい」

 まぁ、こんなことぶっちゃけるの、孝介にだけだけどね。・・俺は俺で、少し欲求を飼い馴らすことを覚えた方がいいかもしれない。泣かせるまでやっちゃいけないって先生に前怒られたし、何よりみんな、大事な友達だもん。

 多分このままいくと次の授業もサボりだろうな。流石にこんな泣きはらした顔の孝介連れてくわけにいかないし、というかそんなことしたら本気で始末されかねないし。とりあえず冷やす用も兼ねて何か自販機で買ってくるね、と、不信感混じりな感情を向けてくる孝介の肩を笑って叩いた。

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