間際でさえ美しいのか
教会と公爵家の、秘められた密約。
白と赤の女王の決戦の裏、決断を強いられたのは何もクイーンファミリーだけでは
ありませんでした。時系列的にはOn The Fatal Chessboardの後半です。
「あっ」
思わず、声を上げた。窓辺に佇み話していた彼の鼻から、すぅ、とまた血が垂れたのだ。
え?と困惑の声を上げた瞬間、彼が咳き込む。そして口元を押えた手からぱたぱたと零れ落ちる、深紅が。華奢で蝋人形のように白い指を伝い、溢れ、手首へと落ちる。普段あまり表情の動かない彼の、驚いたようなその顔。
「ああ・・・済まない、布を」
「分かったし、動かんとき。大丈夫やよ、狼狽えんと静かにな」
食事や睡眠など、人らしい姿を表に見せることを嫌う彼の、ある意味最も人らしい部分が、流れ落ちる。痛みが無いというのが不幸中の幸いか、とはいえ、突然出血するなどというのは、普通はとてつもない恐怖であるに違いない。・・・尤も、彼に恐怖などという感情が残っていれば、という仮定での話でしかないが。
「最近、増えてきたな。今日ももう2度目やろ」
「いや・・・寝ているときにもあったらしくてのう。チェシャに面倒を掛けてしもうて、全く、情けない話じゃ」
けほけほと咳き込み、また血を吐く。水のようにさらりとした赤い液体は、彼の白い絹のシャツの胸元をみるみるうちに鮮やかに染め上げた。ああ、多分、この人もうじき死ぬんやな。・・・連れていかれてしまうのは時間の問題だと、誰が見ても明らかであった。
自分が、この屋敷を訪ねていることは、この街のパワーバランスが崩れることを防ぐためにも秘密にしなければならない事だった。いざ、彼が消え去り、自分が覚悟を決めるまでは、何があっても明かすことはできない。絶対不干渉というのは、孤独を受け入れる強さが無ければ保てない事であるが、いくら個人的なかかわりがあろうとも、自分が7番街の教会の主であり、彼が8番街の墓守である以上、仮にそれが死の間際であっても、その強さを貫く彼に手を差し出す権利は自分にはないのだ。
だから、この秘密の屋敷の中で位は。俺は、サイドテーブルに用意されている白い布を手に取り、崩れ落ちる彼をそっと抱き留める。
「・・・汚すぞ、放っておけば止まる、離れよ」
「ええよ、別に。・・・あんたの血やろ、なんで汚いなんて思う訳があるん?ここには誰もおらん、街も、協定も関係あらへん。血ももうすぐ止まるやろ、眠ってええよ」
「馬鹿め、すっかり介護気取り、か・・・」
皮肉な笑みを絶やさない彼だが、知っている。もう、日中ずっと起きている事さえ厳しいということ。けれど、今この街に起こっている巨大な戦争の終結を見届けるまでは何があっても死ぬことはできないと、必死にもがいていることを。もうええよ、と、何度言葉を掛けようと思った事か。死を遠ざけるため苦しみの中で足掻くことと永遠の終わりを受け容れる事、一体どちらが本当に残酷なのだろう、などと聖職者らしからぬことを思わず考えてしまうほどに、俺自身も、辛かった。
ふと、彼がぐったりしたと思ったら、こちらに体を預けて眠ってしまったようだった。穏やかな顔ではあるが、まるで陶器のようにその肌は冷たい。ほんまに人形さんみたいやなぁ、と前髪を払ってやると、少し彼は眉を寄せた。口の端から流れる血がなかなか止まらないのでベッドに運ぶことは諦め、床に座り込んだままそっと膝の上に彼を横たえ、顔に着いた血を白い布で拭っていく。
「・・・ほんになぁ、もう限界やろ・・。もう、ええんよ、休んでも」
思わず零したその言葉は、多分彼の耳には届いていないだろう。いいのだ、直接は言えないのだから、せめてこれくらい言ったって。みるみるうちに赤く染まる布は、やがてしっとりと俺の指先を濡らし始めた。彼の残り少ない命、そのものだ。
窓の外の空は、抜けるように青い初夏の空だった。