Into The Wonder Fairy Tale.
4
続きます。
「アリス?」
「ありゃ?」
バルーンが飛び交い、女に絡み付かれながら何とか大通りを抜け切る。と、白兎は気が付いた。右手が軽い。目的の帽子屋の店はもう目の前だというのに、右手をしっかりと握っていたはずの、アリスが、アリスが。
「アッ!?おま、ちょっとお前、お嬢ちゃんどこ行った!?いやっ、手ェ離した!?訳ねぇか、マジでどこ行った!?」
「嘘・・・、アリス、アリスッ!!」
「バッカ、大声でアリスとか叫ぶなよ!再征服の日だからって一応迷子になったら殺されてもおかしくねぇんだぞ、見た感じただの幼女なんだから!」
「や・・、でも、私、絶対に手なんか離してません、確かに!しっかりと握っていたはずなのに、ああ、私としたことが、」
血の気が引いた。いつ、どうして?やっぱり手を握るだけじゃあ駄目だった、首輪でもなんでも、つけておけばよかったか。
宝物のような少女がいなくなった。このまま誰かに連れ去られたなんて言ったら、この5番街じゃあ、一体どんな目に遭わされるかわからない。とりあえず探さねば、と必死に冷静になろうとするが、次々と脳裏に浮かぶ子供の死体の記憶に、吐きそうな程の動悸と焦燥が、いとも簡単に思考を焼き尽くした。
「お前がうろたえてどうすんだよ!・・つってもこの人混みじゃあな、一応うちのバニーちゃんたちとかそこらのガキ共に声かけて探すよう言うよ。お嬢ちゃん、5番街には今日初めて来たんだろ?しかもよりによって再征服の日なんてな・・」
「滅多な事言わないで下さい!あの子に何かあったら、私、もう生きている資格なんて、」
巨大マフィアの首領が仮にこの日に殺害されたなどと言ったら。いや、むしろただ殺されるだけならまだいい、見目の綺麗な少女なら、それ以上の地獄だってあり得る。
もしそんなことになってしまったら、私は相手を、どうしてしまうか分からない。
「・・・一先ず落ち着き給えよ。いくら今日は店を開けていないといっても、君の如く目立つ男と三月ウサギが店先で大声をあげていたら、いやでも視線が集うろう。」
「ッ、あ、お前」
「あれ、表出てきてたの」
背後の店の鉄門扉がギィ、と軋んだ音を立てて開かれた。簡素なシャツにジレ、細身のスラックスに身を包んだ痩せた男・・仕立て屋の主、帽子屋が中からうんざりとしたような顔を出している。
昔から、こいつの声が嫌いだった。否応がなしに脳に響き、狼狽や混乱がみるみるうちに静まっていく。その冷たいような明らかに正しいような、少なくとも下卑た5番街に住む人間の中では明らかに異質で美しく古めかしい、そんな言葉遣い。氷水をぶっかけられたかのような気分になりながら、白兎は門扉に手をかけた。
「アリスが・・お嬢様が、いなくなりました。」
「聞こえていたとも。とりあえず、中に入り給えよ。店先で狂人が二人も騒いでいたら、仕事の邪魔もいいところだ」
けだるげな顔の店の主が、踵を返す。俺はちょいと女の子に声かけてから行くわ、と三月ウサギが雑踏に消えた。帽子屋――5番街に店を構える仕立て屋で、裏の顔はマフィアや司法までも指先一つで操る情報屋。今日は普通に、燕尾服を一揃い依頼していたのを取りに来ただけなのに、あの目は確実に何か勘づいている色をしていた。人を狂人呼ばわりしておいて、この町で一番イカレているのは太鼓判を押してもいい、確実に向こうの方だ。
「・・・」
大人しく、白兎は門扉をくぐった。ファミリーのソルジャーと、あとは昔なじみの伝手に、既にアリスの捜索指示は出してある。だが、自分があの手を離してしまったというあまりの愚かさに、足元の底が暗闇に抜けたような、そんな恐怖が身を蝕むのを無視することはできなかった。
「で。君の溺愛する少女が行方不明になったと?・・というか、この人混みではぐれたのかい、完璧主義の君らしくもない」
「ええ、確かに、手を握って・・けれどあの子はまだ大人の背の半分ほどしかないから、流されて行ってしまったのかもしれません。私の失態です」
1階、店舗奥の応接間に通されるかと思ったが、そのまま2階のダイニングに上げられた。テーブルには洒落たガラスの器にクッキー、そして目の前にはソーサーと温められたカップが差し出される。
帽子屋。街の皆は奴をそう呼び、畏怖する。型紙を起こすところから仕上げまで全てを一人でこなすドレスメイカーだが、その品物はシャツ2枚でアリスファミリーのコンシリエーレの月給が飛ぶほど高い。しかし、立体裁断から生地の選定、果てはデザインから縫製まで全てを手作業で、しかもたった一人で行う彼の作品は非常に品質が高く、腹は立つが白兎自身も、特に仕事に関わる燕尾服やコート類の仕立ては全て帽子屋に任せていた。
だが、布切狭と鉛筆を握る手に対し、凶暴なマフィアや喰えない裁判官達にさえ恐れられているのは、奴の持つおぞましいほどの記憶力の方だ。一度見聞きしたものは書き留めずとも決して忘れず、また引き出すことも自在だというその脳内は、まるで完全機密の情報機関そのものとでもいえようか。偏屈でプライドが高く、基本的な常識から吹っ飛んでいる皮肉屋だが、奴の持ちうる情報で国家一つが壊滅するというのだから、自然とマフィア連中ですら、こいつには手を出さないという暗黙のルールまで作った始末だ。
もっとも、彼から情報を引き出すには、それ相応の対価を金か情報かで渡さねばならないというルールある。仮に力ずくでどうにかしようにも、そもそもその情報は奴の頭の中にしかないのだから、殺した時点で情報を得ることは不可能になるし、何より様々な組織の利害の交差点である帽子屋を殺したなどと言えば、街全体が大戦争待ったなしだ。そんな状況下で仕立て屋を営む傍ら、マフィアにも臆せず法外な金額を吹っかけては情報を売り捌く。その姿から、いつしか奴は、三狂人の筆頭などと呼ばれるようになっていた。
肩の上で切りそろえられた艶やかな黒髪に、紺青と紫の鮮烈なオッドアイ。トレードマークは奇怪な装飾のシルクハットと首の包帯だが、祭りの間は一切外出するつもりがなかったのだろう、今日はその帽子もなければリボンタイすらしていない。つくづく美しさの無駄遣い、そして人混み嫌いの鑑だ。
「はん、だったらそんなに5番街を毛嫌いせずに、連れてきて予め牽制しておけば良かったじゃアないか。君のところの首領であると知られていないのが一番の大問題だろう、知られていれば大体は誰も手を出さないだろうし、知っていて手を出したのならばそれは処刑を覚悟なんだろうし。ま、一度でもあのスペードのクイーンの処刑の様子を見たことがあれば、そんな無謀な事を思いつくような馬鹿者はいないだろうがね」
「・・・貴方、何か知っているんじゃないですか。一応、あのクソウサギのバーにもよく顔を出すんでしょ?誘拐、計画、とか・・」
「知りたいのならば先に対価を払いたまえよ、と言いたいところだが。それに関しては全く知らないのだよ。というか、そんな話が持ち上がっていたら流石の私とて黙ってはいないさ。街の秩序が壊れかねないからね」
「・・・・、こんなことになるなら、やっぱり屋敷の外になんて連れ出すんじゃなかった。ずっと地下に閉じこめて、手足に鎖でもつけておけばよかった。」
「阿呆が、それじゃアただの監禁だろう」
相変わらず冷静な帽子屋の声に、苛立ちが洩れる。つい、音を立ててカップをソーサーに置いてしまい、陶器のぶつかる音に、また自己嫌悪が募る。
ぐしゃり、と髪を結わえる紐をほどき、思わずため息が出る。せめて目の前の狂人が茶化したりなんだりしてくれば、この苛立ちだってぶつけようもあるが、そうでもない。こういう時に限って、帽子屋はいつも感情の読めない無表情で、静かに紅茶を飲んでいるばかりだ。
「・・・いっそ、監禁できてしまえば、そりゃあそっちの方が安心だし。でも、あの子にだって、意思が、自我が、あるわけで。それを無視して、全て握りつぶして育て上げたって、そんなのは・・」
「・・まるで、身に覚えのあるような言葉だね。私の前だというのに、随分口が滑っているが、良いのかい」
「私の監禁願望なんて情報、どこの誰が金出してまで買うんだよ・・」
かすかに聞こえる白昼の祭りの喧騒が、いやに不安を煽る。分かってるんだ、この状況じゃ私は動けないし、かといって心当たりがあるわけでもない。ソルジャーたちからも連絡はないし、今できる事なんて、ただ待つことくらいなもので。
「私、もし、あの子が見つからなかったら、8番街だろうが死体を見つけに、行きますよ。そして、やったやつ、絶対、殺す」
机に突っ伏してそう漏らすと、馬鹿も休み休み言え、と返ってきた。こういう思考は、よくない。分かっている。全部、分かっている。分別は付けられる。切り離して、少し遠くから見て、呑まれるな、呑まれるな。
「・・・ま、君がそういう『馬鹿』だから、「彼」も・・・、あ?彼、そういえば、・・・・まさか、白兎起きろ!君が思っているより事は面倒で深刻かもしれんぞ」
「は?」
急に大声を出した帽子屋に、白兎は体を起こした。ばち、と目が合うと、帽子屋は苦虫を嚙み潰したような表情で、さっと目を伏せる。
「どうせいつもの戯言だろうと、聞き流していたんだ。でも、1週間前、「彼」が何か言っていたのが、もしこのアリスのことだったというのなら、それは相当にまずい」
「何だってんです、彼って、一体」
帽子屋が、一瞬口をつぐむ。逡巡する様子を見せた後、ゆっくりとその薄い唇を開いた。
「公爵夫人だ。彼が、言っていた。捨て札なら捨て札らしく、墓場からご挨拶に向かおうか、と。もし、アリスのことならば・・」
「な・・・・ッ!」
公爵夫人。
この街の暗部を一手に握る、銃や法ですら罷り通ることができない昏い森の墓守。
「アリスッ・・・!!」
白兎は、叫んで立ち上がった。駄目だ、もしそれが本当ならば、アリスを連れ去ったのが公爵夫人だというのなら。
閃光が貫くように、あの吐く程の死臭が、黒煉瓦の廃墟に転がる人間の四肢が、憎悪と恐怖を煮詰めたかのような幻覚が、フラッシュバックする。
「アリス・・・ああ、どうか、無事で・・・」
相手が、あまりに、悪かった。公爵家の持つ力の前では、一組織の武力など無に等しい。
白兎は、震える呼吸を何とか抑えようと、最悪の想像を振り払って唇を噛み締めるほか無かった。