猫の土産
チェシャ猫と公爵夫人、原作でも微妙な関係だけど、本作でも微妙。
飼い猫とおじいちゃん、というより、地域猫と餌係に近いかも。
暖炉の前は、くつろぎのスペースです。
「・・・何じゃ、随分と生臭いのう」
ボクが部屋に入るなり、ご主人様は宙に紅茶のカップを一瞬止めてそう呟いた。日も暮れかけ、徐々に夜の気配が迫る3番街の外れの洋館。おかしいな、今さっきシャワー浴びてきたばっかりだっていうのに何で気付かれたんだろう。
暖炉に近寄る。髪が長いから乾かさないと風邪を引くのは知っているけれど、ドライヤーは何となく嫌いだ。まぁ、この時代にエアコンじゃなくて暖炉が部屋の中心に据え置かれてるような家だもん、別に、って話なのかもしれないけれど。
ご主人様、なんていうほど、ボクと彼の間に明確な主従関係なんてものはない。ただ、昔お尋ね者にされてしまった時、生きるためにこの街でとても強い力を持つ彼の庇護下に入れてもらって以来ずるずると居座り続けているだけだ。誰かの何かを手伝ってたまに謝礼を物でもらうくらいで金銭的な収入は皆無に近いから生活費とかを払っているわけではないけれど、別に其方からはした金をむしり取らねばならぬほど困窮してないわい、とずっと前に言われたからもうそれっきりだ。
「そういう貴方だって、相変わらずわざとらしいくらいの古薔薇の香りだけど。意外と気にするよね、そういうの」
暖炉前のソファ、ご主人様こと公爵夫人の隣に腰を下ろす。普段から何となくいい匂いのする人だけれど、この香りの時は特別だ。再びカップへ口をつけていたのでそっと髪の毛先をするりと掬うと、じろり、と横目で睨まれた。
「やめよ。・・・もう血気盛んなのは疾うに卒業済みじゃ。それより、服もきちんとランドリールームに置いてこいと言うておるであろう。それが血生臭さの元じゃと何度説教させるのじゃ」
「分かったってば。・・・いいじゃない、ボク8番街の匂いとか雰囲気結構嫌いじゃないのに、どうして隠しちゃうのさ」
ご主人様から古薔薇の匂いがするとき、それはご主人様が8番街に出向いたということを示している。あの地区一帯に漂う死臭は、アンダーランドの墓場、という通称に恥じないくらい立派なものだが、酸化鉄を多く含んだ黒い煉瓦のあの街並みを、何だかんだとボクは愛していた。
どこからともなく片付け屋を手配し、転がる浮浪者の死体を確認して、名簿から死者台帳へと転記する。そこには表の1-7番街にでさえギリギリ残っているような倫理や掟なんてものは欠片もなくて、ご主人様が8番街では法であり、全てだ。黒いシルクのドレープをひらめかせながら街道跡を歩く彼は、確かに美しい。そんなところを含めて、ボクは彼を、この家を、あの死の街を気に入っているのである。
「ほれ、髪をきちんと乾かせと言うておろう、あときちんと服くらい着よ・・全く、世話の焼ける猫じゃ」
「とはいえ何だかんだと世話焼いてくれるんだもん、優しいよねぇ」
「追い出して女王にでも拾われたら面倒じゃからの、拾った猫の責任くらい取るわ」
「んふふ」
今日の収入、帽子屋のお使いのお駄賃にもらったチョコレート一欠片、ドードーのところのコーカスレースで負けた男から巻き上げた脾臓。その脾臓と交換で芋虫先生からごちそうになった、パウンドケーキとお昼ごはん。でも、寝床はここ。この人の隣だ。
暖炉の前で、ボクは丸くなった。