君が手を汚す必要はないよ
タリウムとPE7の先輩方の話。仙人のような鉛も、後輩の事は可愛くて仕方がない。
さく、さく。
そんな音が聞こえた気がして、寮の二人部屋にいた鉛は顔を上げた。反射的に開いていない窓の外を見遣る。
「リード?どうしたの」
肩に凭れていたスズが話し掛けてきたが、それどころではない。消灯時間をとうに過ぎた23時、枯れ葉が積もって音が立ちやすい男子寮側にわざわざ来るのは、決して探検やら逢い引き目的ではないだろう。となると。またあいつか。思い当たった節に鉛は隠した眉を軽くひそめた。
「…いや、何でもない。そろそろ寝ようか、明日一時間目から体育だったろ」
「いいけど、結局サボるじゃん」
「たまには出てみようかなぁ、なんつって」
「止めときなよ、倒れるだけでしょ」
和やかな会話を繕いつつ、外の物音に全力で耳を傾ける。まだそう遠くには行ってないだろう。戸口に立ち、スズが2段ベッドの下に潜り込んだのを確認してから、消すよ、と一声かけて電気のスイッチを押した。
「真っ暗ぁ」
「当たり前」
ローテーブルにぶつからないよう、そっと歩み寄る。枕元に屈むと、うっすらと見えるスズはもう眠たげだ。
「おやすみ、スズ」
「ん……」
目元を手で覆い、瞼を閉じさせる。今日は昼にいつものメンバーでバカ騒ぎしていたせいか、しばらくしてすぐに静かな寝息が聞こえてきた。
余計な疑問を持たずに寝てくれて、良かった。
少し。いくら親しい友人だとはいっても、スズをこの事に巻き込むには覚悟が足りなかった。誰のか。無論、鉛自身のだ。
正直、他のPE7に話すことすら躊躇ったのだ。昔から表面上の綺麗な部分なんかより余程深い、吐きそうなほどの絶望で繋がってきた彼らにでさえ、躊躇った。それを、まともな側面の強い生き方をして来た――つまり、虐げの歴史とは無縁に生きてきたスズに見せてしまうのは、ちょっと。仲間はずれにするようで後ろめたいが、この案件の発端がくだんの絶望に起因している以上、そうやすやすと"こちら側"ではないスズに教えてしまう訳にはいかなかった。
スズが完全に眠りに落ちたのを確認し、鉛は立ち上がる。心を決めて制服に着替え、外履きを持ってくると、窓から屋外にそっと抜け出した。
1階の窓が嵌め殺しじゃないってのは防犯上どうなんだ、といつも思うが、そこら辺は自分もそれを利用している一人に他ならないので黙っている。なるべく足音を立てないように留意しながら先程の気配を辿った。
窓の外はちょっとした公園のようになっていて、専ら休日の生徒の溜まり場――憩いの場になっている。だだっ広い広場にいつまでもいるわけないか、と呟いた。当然なのだが。
さあて、どこから探そうかな、などと茶番劇を一人で繰り広げながら、鉛は前髪を掻き上げて顔を露にした。久々に見た前髪を通さない外の景色が夜だったのが残念だが仕方ない。茶番のフラグを回収すべく、鉛はすっと目を細めた。
徐々に視界に浮かび上がる、3色の線。赤、緑、黄、宵闇の中ではネオンサインのように見えるが加減しないと真っ白で何も見えなくなる。主に線が放たれているのは1年生の棟、2年生の棟からはポツポツ。あとは三年生の棟から2つ。片方はとても明るく、もう片方はとても静かで、まぁそんなことはどうでもいい。問題はどちらかな、と辺りを見渡すと、見えた。
「あー、いたいた。…またいつもの場所かよ、飽きないなぁ」
毎度毎度、同じ場所。光自体は強くないどころか弱々しいくらいだが、それでも確かに見えた。輝く電子線の緑が。
鉛は、他の元素や化合物には見られない特技を持っている。鉛の金属単体は如何なる放射線も吸収・遮蔽してしまうため、その具現である鉛は、他の放射性元素が放つ放射線を見ることができるのだ。
日常、明るい所ではほとんど見えないし、暗闇の中であっても僅かに色が分かる程度でしかないが、少し目を眇めて視覚に神経を集中させるとそれがはっきりと見えるようになる。赤はα線、緑はβ線、黄色はγ線、といった感じだ。鉛が前髪で視界を覆う理由の一つに、この光が地味にちらちらとしつこいからというのがあるというのは、勿論誰にも明かしていない秘密。隠し事がやたら多いのは申し訳ないとは思うが、やっと平和になった世の中、これを壊さないための嘘は正義と受け取ってほしい、と誤魔化させて貰う。
「さて、と…行きますか。気乗りしないけど。」
これも正義のため、と免罪符代わりに嘯いてみる。今日は一体どんな惨劇が繰り広げられているのやら。とりあえずそれは後のお楽しみとして、鉛は寮生用食堂脇へと向かった。
段々と強くなる光。ここまで来りゃもう分かるか、と前髪を下ろす。食堂と廊下に囲まれコの字型になっているスペースの突き当たり。日当たりが悪く日中でさえ誰も近寄ったりはしないこの奥から、ある意味聞き慣れた、それでもって明らかに夜の静寂にそぐわない嫌な音が、壁に反響して鉛の耳にまとわりついた。
唯一つの外灯の光は向こうまでは届いていない。ぼんやりと闇に浮かぶ人影。何かにのしかかり一心に振るうその手にはナイフが。果物ナイフだとかそんな生易しいものではない。歴としたサバイバルナイフだ。全くなぁ、と内心鉛はため息をつく。誰がこの子をこんな風にしちゃったんだろうね。時代か。時間だろうか。そんなことは誰にも分からない。
「おーい、お嬢ちゃん」
ガサ、と人影の動きが止まった。膝まである半透明のレインコートは前回見つけたときに鉛が着るよう命じたものだ。ちゃんと言い付けを守ったのは偉いが、ただ。
「フード被りなさいって言ったでしょう。あとマスクも。綺麗な顔が台無しになるよ」
「……誰かいるんだ」
ぽそっと、呟きが聞こえた。何の気も籠っていない、ただ存在を認識しただけの声。
「そうだよ。俺だよ」
静寂、というか沈黙が手持ち無沙汰になる。どうだかね、気まぐれなお嬢さんは果たして覚えてくれているのだろうか。
ぼと、と相手がナイフを取り落とした。ゆっくりと立ち上がり、こちらを振り向く。
途端、表情が明るくなった。
「ピビ先輩!」
駆け寄って抱きつこうとしたらしいが、鉛の目の前で彼女は急停止し、腕を広げて自身のレインコートを見回した。
「あーあ、血まみれだ」
困ったな、というように首をかしげ、やがて思い付いたのか、レインコートを脱ぎ捨て地面に放った。可愛いんだけどな、その直前まで自分が行っていたことに何の感慨も抱いていないことを別とすれば。そんな鉛の思いは当然届かず、白い頬を血に染めた欠陥少女は眩しいほどの笑みを浮かべている。
とりあえず、ため息を一つ。それと諦めを二つ。
「さて、今日は何を殺したの?」
我ながらなんつー質問だ、というのは黙殺。尋ねると、血まみれ少女はその笑顔のままであっさりと答えてくれた。
「分かんない!何か昼間突っ掛かってきた人。あと猫」
「…猫」
「猫!」
……。とりあえず動物愛護法違反と殺人罪、どちらが重いかは一目瞭然だったので、重い方から詳しく聞いてみる事にした。
「うん、まず人って誰?」
「多分よく分かんない化合物じゃない?元素とか強酸じゃないよ」
「あ、そう…。じゃあ何でそれを殺すに至ったの」
「廊下でナンパされたからあたしは貴方に欠片も興味ないです、って答えたの」
それで何故お前の方が殺してんだよ。そういう突っ込みは飲み込んでおく。キリがない。
「…で?」
「そうしたら何かうだうだ言い掛かり付けてきたから、うるさいし殺しちゃった」
と、とと。はい、ようやく原因が出てきた。
「言い掛かりって、何言われたの」
当の本人的には余りそれは気になるものではないらしい。だが、こちらとしては見過ごすわけにはいかない。問い掛けると、殺人少女はあっけらかんと答えてくれた。
「えーと、どうせ他の先輩とかともしてんだろうからいいじゃねーか、って」
「………他の先輩って、俺達の事?」
「そうじゃないの?良く意味は分かんなかったけど、何か言い方にムカついたから」
夜にもう一度会おうって言ったらやっぱり簡単に来てくれたよ、と少女はにこにこ言う。最近、夜に会いたいと言うと簡単に男相手なら来て貰える、と言うことを知ったらしく、まぁ結果として彼女の『したこと』がバレにくくなった訳だからオーライなのかもしれないが。
カーディガンから少し出てるかくらいのとても短いスカート。鉛自身彼女にそういった不埒な感情を抱いたことはないが、客観的に見るなら、彼女は体や容姿には人並外れて恵まれている。だが、それを彼女は自覚していないし、自分が周りの男からどのような目で見られているかということにも気が付いていない。
だからね、まぁ、俺達三年生が守ってやってる訳なんだけど。他への興味が極度に薄く、ついでに倫理観も無くしてしまった、この可哀想な少女を。生まれてすぐ、殺人の道具に仕立てあげられてしまった孤独な少女を。先回りして障害物を取り除いてやったり、追い縋る塵を蹴散らしてやったりしながら、導く。それが、『打ち捨てられた者』の先輩としての使命だ。
どうせ殺された男子生徒だって化合物なのだ、明日にはまた元気な姿で生き返る。だから優先すべきはそっちではなく、こっち。露払いなんてお前がやる必要はないんだよ。俺達に任せとけって。
「ねぇ、タリウム」
「なーに、ピビ先輩」
本当に、綺麗な子だ。昔からそう。毒性の強い者ほど美しい。スポットライトのように照らす外灯の中で、顔に跳ねた血飛沫がその無機質な美貌をより一層際立たせていた。本当にこの子には血が良く似合う。
「帰ろうか。もうじき0時回るよ。明日寝坊しちゃう」
「えー、いいよ別に。てかピビ先輩ってスズ先輩と同室じゃないっけ。よく抜け出せたね」
「一度寝付くと起きないから、アイツ。それよりお前は?」
「あたし一人部屋だもん。ていうか二人用だけど元々あたししかいなかったし」
「そう」
「うん」
死体に一瞥をくれてから、さ、とタリウムの肩を叩いて踵を返す。あ、といきなりタリウムが戻ったかと思ったら、何かを拾ってきた。
「忘れて帰るところだった。宝物なのに」
可愛らしく鉛の制服の裾を掴んで見せてきたのは、――先程彼女が振るっていたと思わしきナイフだ。お小遣い貯めて買ったの、と嬉しげに言うタリウムの頭を、黙って鉛は撫でてやった。
「よし、帰ろう。流石に女子棟までは送ってけないけど、ちゃんと帰るんだよ」
「分かってるよ。用は済んだから帰って寝るもん」
「そう。それでいい」
それでいいのだ。できれば、そのまま黙って知らせてくれるだけでいい。後は俺達がやるから。お前が、こんな奴の為に手を汚す必要なんてないんだから。
元素の死体は消える。そして数時間後には彼の部屋にまた再生しているはずだ。猫は…死んでるよな、多分。まぁ、それはおいておこう。猫の怪死事件くらいなら硝酸が揉み消してしまうだろう。
それよりは明日だ。一度集まらなければならないな。それから行動。忙しくなるぞ。
前髪の下の瞳を鋭く笑わせながら、鉛は夜空のもとタリウムの後ろをゆっくりと歩いた。
***
「へぇ、そないな事があったん。嫌やわぁ、よう平静でいられたなぁ、お前」
「平静なんかじゃないけどさ、仕方無いじゃん、もう相手死んでたんだし」
「昨日の話だったか。全く、アイツに寄るなんて物好きもいたものだ」
「せやかてアルス、別嬪やん、お姫さん。体つきも悪うないし」
「それ言ったらダメでしょ、ベリー」
「何やリード、妬いとんのか」
「こら、話を脱線させるな」
「まぁ、とにかく。放課後でええ?もう誰がやったかゆうんは見当ついてはんやろ」
「勿論。顔バッチリ見たから。半分以上皮剥げてたし鼻無かったけど」
「うは、流石やなぁお姫さん」
「鬱陶しい物にしか見えてないだろうからな、タリウムには」
「なら、いつも通りに」
「呼び出して注意、と。流血付で」
「せやな」
「分かった」
「愚者、されども王にて」
「舞踏の夜に踊る、躍る」
「甘美なる、毒したるは」
「酔狂、又は絶望と諦感」
『二度と、タリウムに近付けないように。』
にやり。
Fin