アルレッキーノ、
または高貴なるイヴァン
2です。
とある時代の即興喜劇の劇団のお話。
家族関係っていつの時代も大変。
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ちょっと、だとか、危ない、だとか、そんなライモンドの叫び声が聞こえた気がした。
が、先に体が動く。まだまだ4年前を無くしていない自分に少し笑った。
片腕でとはいえ、押さえ方がしっかりとしているからジローラモは動けないはずだ。殺す気がないのは容易に見て取れる。だが、脅しに使った時点でもアウトだ。一般人を巻き込むな。あれだけ言われていたことだというのに。
ジローラモの足に絡まないように滑り込み、体勢を崩す前に足払いを掛ける。相手の黒いブーツが宙に浮きかけた時、左手を突いて床から足を跳ね上げ、腕が緩んだのを見てすかさずナイフごと相手の手首を蹴り上げた。
その勢いで宙返りし、着地。弧を描いて落ちてきたナイフを、勢いを殺して取った。久々にこんな激しい動きをしたからどこか痛めたかも知れないな、などと考えながら、イヴァンは立ち上がる。
よろけたジローラモが真っ青な顔で、こちらに倒れこむように駆けてくる。対する侵入者は、蹴られた手首を痛いなぁ、と振っていた。
「相変わらず凄いねぇ。四年も何も触って無いから、もっと鈍ってるかと思ってた」
最後に見たときから、少し顔が大人びた。でも、この歌うような――相手をおちょくるような物言いは変わっていない。
「お前こそ、何のつもり?掟破るスレスレみたいなことしてさ」
「堂々と破った兄さんには言われたくないね。・・・・っと、あれ、この人達仲間でしょ?俺が弟だとかばれちゃっていいの?ナイフ持ってお仲間威すようなまねする人間がさ」
「いいよ、もう明かしてるもの、ある程度は」
あえて目を合わせないまま言う。予想外、という動揺が空気から伝わった。兄弟、と小さくライモンドが呟いたのが聞こえる。
「・・・へえ、あ、そう。ならいいんだけど。だったら、兄さんが人殺しだってのも、知ってる訳ね?」
「だったら何。そもそもうちの家名明かした時点で、俺が人殺してるなんての、すぐに分かるでしょ」
人殺し。ダメージを与えたつもりなんだろうか。特に何とも思ってないよ。そんな感じで言ってのけると、黙った。
一つ深呼吸をして振り返り、イヴァンは笑みを浮かべた。
「ごめんね、驚かせちゃったかな。でもそんなに怯えなくても大丈夫。ジローラモも、さっきのもちょっとしたジョークみたいなものだから・・・・っ!」
いきなり右手首を掴まれ、背中に捻り上げられた。思わずナイフを取り落とす。だが背後に立つ気配は感じていたが無視していたので、これくらいは想定内。避けることもできたが、皆へのフォローが先だ。
親類の体術師範から自分が叩き込まれたのと同じ。しかも押さえるだけでなく折る気でいるのがすぐに分かったから、イヴァンは体の力を抜いた。余計な殺気を感知されると後が面倒だ。
くすり、と耳元で黒づくめの弟が笑う。手首はそのまま、弟の腕が身体に回された。抱き締められるといえば聞こえがいいが、事実上拘束。ふわりと甘い香水の匂いがして、相変わらずブランド変えてないんだ、と少し懐かしい気分になる。あと、ピアスも。
「いきなり現れてすみません。それと、さっきナイフ向けちゃった人ごめんね。別に殺す気はなかったの」
にこ、と首を傾げて弟が言った。あざといほどの可憐な笑顔。可愛こぶる方向で決めたらしいが、まぁ、自分や兄とは顔のつくりが少し違うのだから、同じように「妖艶に」というわけでなくてもいいのか、とイヴァンは納得する。にしてもなぁ、四年たつと変わるもんだね、随分。
「初めまして、俺はピエル・サウダーティ。イヴ兄さんの四つ下の弟だよ。ちょっと前に来たと思うけど、うちの今の家長が父親で、次期家長が俺たちの一番上のお兄ちゃんのエルネスト・サウダーティ。イヴ兄さんより更に4つ上で、俺より8つ上。三人兄弟だよ」
ね、と弟がこちらに顔を向けてくる。距離の近さは昔から。人に飛びつくのが大好きで、甘えたさん。意地っ張りなくせに寂しがりで、10の頃まで俺と一緒じゃないと眠れないほどだった。
そんな事、まだ夢見て、期待してるんだろうかね。暗殺用のナイフ。馬鹿だな、だから甘いんだよ、お前は。実行前に相手に意図を悟られてどうすんだ。
「ついでに言えば」
仕方ない、とイヴァンも続けて口を開く。まるで兄のような眼差しでピエルを一瞥し、目の前で異様なものを見るような目をしている座員たちに視線を移した。
「姉妹は一切いない。親族はいっぱいいるけど本家に次いで力があるのは初代当主の次男の家系。そっちの現当主は屋敷から少し離れたところに住んでて、それが俺たちに体術を教えてくれた人たちだよ」
言いながらイヴァンは目を上げ、視線の先でピエルをとらえた。悪戯っぽい蒼の瞳に一瞬不快感がちらついたが、すぐに消えて笑顔に戻る。その代り、手首の締め上げがきつくなった。
「・・・で。何の用で来たの?まさか顔見せに来てくれたとか、そんな友好的なものじゃないでしょ」
半ば探るように。半ば、降参の意を示すように、低く言う。勘違いしてくれれば、時間と隙が稼げる。
「まぁ、そうだね。だったらこんな手荒な真似はしてないよ。・・・あのさ兄さん、戻ってきなよ。ていうか、いい加減エリー兄さんが呆れてる。いつまで意地張ってるつもりなの」
やっぱりそれを言うか。不意打ちを食らったような表情をしつつ、イヴァンは考えをめぐらした。
その件については以前父親と共にエルネストが現れた時に散々に言ったはずだ。サウダーティに戻る気はない、と。だから、当然だがそれは家中が承知している訳であり、とどのつまりピエルが言っているのは真意ではなく。
なるほどね。そういうこと。
そういうことか。
ぷつ、と頭の中で何かが切れた。いや、もしかしたらそれはスイッチだったのかもしれない。本当に説得するためだけに来たんだとしたら、まだ適当にあしらって追い返したものを。
「全くさ、いや、確かにあの女の子は綺麗な子だったけどさ、わざわざ決闘してまで進退決めるほどの相手でもなかったでしょ。しかも単独で動いて結局相手殺しちゃったとかさ。下策中の下策だよ」
知らぬ顔で説教を垂れる弟。きっと唆されて来たんだろう。まんまとあの父親の言うことを信じ込んで。
皆が、一族中が侮っているのだ。所詮、俗世に混じれば並の庶民よ、と。
「あのさぁ」
別に、戻りたいとは思っていない。でも、戻れないほど堕ちたと馬鹿にされたくもない。
は、これじゃどっちが堕ちてるんだか分からないじゃないか。
ピエルの高慢な喋りを遮った。
「何か勘違いしてない?」
「え?」
何、女のこと?
そう言いかけたピエルを、ねめつける。
「・・・・・」
口をつぐんだピエル。殺気を、殺意を、隠すのはもうやめた。
ごめんねクリスティーナ、フランカ。女の人の前でこういう顔するのは嫌だったんだけど。
ライモンド、マルチェロ、ジローラモ。君たちの前では綺麗な俺でいたかった。
でも。
「ごめん、みんな、少しだけ、アルレッキーノを捨てさせて」
もう自分がどんな顔をしているのかも、よく分からない。
だが、苛立ちや屈辱にも似たこの感情、抑えきれないから。
イヴァン、とマルチェロの声。ああ、優しいね。こんな時でも俺の名前を呼んでくれるんだ。
ごめんね。ちゃんと戻るから。
「少しだけ、イヴァン・サウダーティに帰らせて」
刹那。
自らの台詞が鍵となり、まるで箍が外れるかのように。
ずっとずっと胸の奥に封じ込めておいた、恐ろしいほどの激情と冷酷さが同時に噴き出してくる。
イヴァンの中から“アルレッキーノ”が消え、久々に“イヴァン・サウダーティ”が姿を現した。
感覚や意識が研ぎ澄まされていくのを感じながら、イヴァンは不敵に笑った。
****
少しだけ、イヴァン・サウダーティに帰らせて。そう言った瞬間、明らかにイヴァンの雰囲気が変わったのをライモンドは感じた。鋭さというか残酷さというか、まるで別人のようだ。
前髪を払うように顔を上げたイヴァンが、拘束されたままぞっとするような冷たい笑みを浮かべる。
「今のお前の言ってたことで、だいたいそっちが何考えてるんだかは分かった。・・何だかなぁ、やっぱり俺って相当プライド高いんだね」
言い切った瞬間、イヴァンの弟――ピエルが後ろに吹っ飛んだ。背を床に打ったのか、一瞬呼吸を失ったのが窺える。陽気で罪作りで、時々キツいジョークを飛ばしてくるようなイヴァンは、そこにはいなかった。
それでも、やはりその家での訓練の賜物なのか。ピエルはすぐ起き上がり、今一状況を掴めていないような目でナイフから鞘を払う。
「いきなり、何」
「帰ったらあのジジイに伝えといて欲しいことがいくつかあるんだけど」
警戒交じりのピエルとは対照的に、酷くリラックスした様子の――それでいて、凄まじい殺気を放っているイヴァンが、少し声を大にして言った。
「一つ」
空気を震わせる、艶やかな声。芝居掛かってはいるが、決して舞台の上でのような楽しげなものじゃない。これは、恫喝だ。
「いい加減本当のことを家族にも話しなよって。あの女との話ね、全くの嘘だよ」
「え・・・・?」
ピエルが目を見開く。恐らくそれとは別の意味だが、ライモンドもまた驚いていた。
同じ家族のくせして、四年も経ってまだ真実を知らされてないのかよ。
貴族だから?親兄弟との関係も希薄なのか?――いや、関係ないだろ。
ふと、こちらに背を向けるイヴァンを挟んだ向かい、ピエルと目が合った。心中を読まれたらしい。まだ若いその頬に、さっと朱が走る。
「ちょっと待って、どういうこと?俺、知らないんだけど。で何でここの人たちは知ってるの?」
「だから言ってんだろ、あのジジイに言っとけって。あれは全くの事実無根な噂。ついでに言えば、決闘に乗り気じゃなかった俺をやってこい、ついでに殺してしまえって嗾けたのはあの耄碌ジジイの方だ」
「嘘・・・・」
「信じる信じないはそちらに任せる。でもさぁ、エリーもまだ信じてんだろうね、だからあんなに辛辣に当たってきたんでしょ?女一人のために何故家を捨てた、って。俺が家を出たのは、トカゲのしっぽ切りみたいに親父が俺を切り捨てたのが気に入らなかったからだよ。―――というか、あの時は傷ついた。俺ってどうでもいい存在だったのかな、とかさ、流石にね。今まで誰にも負けなかったのに」
「・・・」
ピエルが唇を噛む。だがそのしんみりとした空気を切って捨てるかの如く、二つ目、と声が上がった。
本題はこっち、とイヴァンの溜息が聞こえる。
「お前、さ。俺のこと殺しに来たんでしょ」
「・・・・!!」
殺しに、来た?
イヴァンの口から出たその単語を頭で反芻し、意味を理解したところで更に深く周囲の空気が凍り付いた。
禍々しいほどの、威圧感。息苦しい。これが、イヴァンの華奢な身体から発せられている。
ああ、バレたか、だとかそんな感じではなく、ピエルも明らかに怯えた様子を見せていた。
それを無視してつかつかとイヴァンがピエルに歩み寄る。
「・・・よく、分かったね」
蒼ざめた顔で、ようやっと返すピエル。
次の瞬間。
――――ダァン・・・ッ!
「く、は・・・っ」
苦鳴。
立ちあがっていたはずのピエルが、衝撃音と共に床に叩きつけられていた。
「イヴァンッ!?」
ピエルを、この一瞬で組伏せた。動きは残像すら残していない。思わず叫び掛けたライモンドの声も、全くイヴァンには届いていないようだった。
髪はピエルの方が茶髪だが、やはり同じ血を感じさせる似た顔立ち。イヴァンの手には―――いつの間に奪ったのか、ナイフが。ピエルの首元に刃を押し付けながら、イヴァンは軽く笑んでいた。
紺碧の瞳が、ギラリと光る。
「へぇ、随分と侮られてるんだね、俺も」
「や・・・違・・・・・」
「何が?違うって?」
ほら、言ってみろよ、とイヴァンが少し突き付けた刃先を立てた。抉ることも刺すことも可能な構え方。乱暴な口調、獰猛な表情、まるで別人を見ているようで、これがサウダーティの本気か、とライモンドは息を呑んだ。
隣でクリスティーナが色を失っている。口許を抑える指先は微かに震えていて、その隣のフランカでさえも、目を見開いたまま固まっていた。
「お前一人だけで来たんでしょ。つまり、俺は、お前一人で殺せると、見なされた訳だ。お前ごときに、やれると。そうだよな?」
「・・・・」
ピエルが顔を伏せる。が、それを許さずイヴァンはピエルの顎に指を掛け、半ば強引に上を向かせた。
「馬っ鹿じゃねぇの。お前如き遣わしたくらいで俺が殺せるとでも思ってるんだ。は、舐められたもんだねぇ、お前らが天才と認めた才能持ちの俺が?お前に?殺せるって?」
「ごめ・・・ごめん、なさい・・・」
「伝えとけ。次はない。次こんな事したらお前ら全員まとめて血祭りにあげてやる。一人残らず殺して家ごと絶やしてやるって、な」
いいか、とナイフの腹でピエルの頬をぱしぱしと叩くと、黙ってピエルは頷く。それを確認したのか、しばらくしてイヴァンがナイフを離し、床に置いた。
そっと、音もなく立ち上がる。
「・・・・」
なにも言わぬまま、床のピエルも体を起こした。こちらキャストはその間全く息も吐けず、そして、
「・・・・はー、参ったよ、だから俺じゃ無理だって言ったのにあのクソ親父め。俺に兄さんを殺れる訳ないのにさ、ねぇ」
「親父の事だからそれも織り込み済みだと思うけど?どうなの、流れ的にベルナルトかレオーネ辺りが止めてきそうなのにさ」
は?
「でも父さんが押し切った、らしいよ。誰を行かせるかっていう協議は教師たち全員でやったみたいなんだけど、俺はもちろんのことエリー兄さんすら中に入れてもらえなかったんだもん。ただ後でアルフレッドがちょっとだけ教えてくれて、それで知ってるってだけ」
「ふーん・・・まぁ、結構あの人たちの中じゃアルフレッドってお喋りってか反骨精神あふれてるもんね」
「最初マリアーノに聞いてみたんだけどはぐらかされちゃった」
「あいつはそう簡単に口割らないよ。何気に優しいし義理堅いもの」
先ほどの殺伐とした雰囲気はどこへやら、イヴァンはピエルに手を差し出し、その手を取ったピエルがよいしょと立ち上がって、普通に会話が始まってしまった。もう普通に兄弟のようで、イヴァンの雰囲気も元通りアルレッキーノに戻っている。
いや、待て。待てよ、おい。さっきまでお前ら、何してた?
「ちょっと・・・ッ!」
「え?」
「何?」
勝手に日常の中に戻ろうとしている二人に、非日常に置いてきぼりにされたライモンドは叫び掛けた。待てって、何でそれでいきなり普通に戻るんだよ。
そんなライモンドから何かを感じ取ったのか、ピエルがわざとらしいとぼけた顔であー、と頷いた。
「ごめんね、勝手に来ておいて長々居座るのもどうかって話だよね。また折見て兄さんには会いに来るわ」
「いや、そうじゃねぇって」
「あ、そうだピエル、ちょっと待って」
「どうしたの、兄さん」
話にイヴァンが割って入ってくる。何事かと目を移すと、ピエルが持っていたナイフをいきなりイヴァンが手に取り、
「ごめんごめん、こうしないとお前怒られるでしょ」
少し自身の体を見回して、それから、
パシュッ。
「な・・・・ッ!!?」
自分の左腕に刃を当て、何の躊躇いもなくイヴァンはナイフを振り抜いた。
切り裂かれた白いシャツ、瞬く間に赤が広がり、侵食していく。そして、イヴァンが血の滴る腕をピエルに向けて軽く振った。
ピエルの白い頬や襟、クラバットに、イヴァンの鮮血が跳ね散る。
「ああ、そうだったね、兄さん」
「お前だって流石に、いくら俺相手だとしても手土産無しじゃ帰れないでしょ。防御創だとばれるかもしれないから、この程度しかできないけども」
「ううん、助かる。俺も――父さんは別に何も言わないだろうけど、レオーネとかヴィンセンテにからかわれるのがやだし」
「は・・・・・?」
正直、意味が分からない。何故、自分で自分を切りつけ、お前、ここの舞台俳優だろうが。
「おいイヴァン!」
「うひゃ、面倒臭そうだから僕帰るね!ごめん兄さん、後で家族に説明しとく代わりにそっちのことはよろしく!」
イヴァンの右肩を引っ掴んで怒鳴りかけると、これ幸いと舌を出して言い残したピエルが、奇術のように瞬時に消えた。跡形はおろか気配や記憶にさえとどまらせぬようで、残されたのは、残されたのは一体、何なんだこれ。
「イヴァン・・・、どういうことだ?」
腕から血を流しても平然としているイヴァンに、座長のマルチェロが問い掛ける。
イヴァンが、困ったような笑みを浮かべて振り向いた。
「うーん、お家騒動?」
その笑顔があまりにも先ほどのピエルとそっくりで。ぞっとするほどのあざとさと、愛嬌だ。
「・・・とにかく、止血するから。話はあとでいいですよね、座長」
とんでもない眩暈と疲労を感じながらライモンドは、つまり後で全部聞かせてもらうぞ、と、うっすらと笑ったままでいるイヴァンを見据えた。