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アルレッキーノ、

または高貴なるイヴァン

長編になるぞ。とある時代の、即興喜劇のトリックスターのお話。

​序章。

 ある寒く、それでもって陽気な夜。

 

 

 

『Quelle pupille io miro:』

 

 

 

 酒場からの帰り道で。

 

 

 

『Con tutti i cuor. Sospiro. 』

 

 

 

 どこからか聞こえてきた旋律。

 これは、と座長のマルチェロが目を見開く。

 

『これは、“狂気のオルランド”か。誰だ、こんな凍えそうな夜に、こんな所で歌うのは』

 

 大通りの角だ、と、音を認めたライモンドは直感する。そして、少し戦慄する。

 歌人がいると思わしき場所は、ここから2,3ブロック歩いたところだ。それでも、ここまで聞こえてくるほど良く通る声。それに恐ろしい歌唱力。

 

『けっ、どうせこんなさびれた街角で歌ってるのなんか、狂人か乞食のどっちかだろうさ』

 

 口の悪いジローラモが道の端に唾を吐く。今日は女大将のフランカが来なかったから、酒場でもジローラモの態度は酷いものだった。

 だが、その時のライモンドには全くそんな言葉は、頭に入ってきていなかった。

 “人を見る目”に関して天性の才を持つライモンドは、確かに捉えていた。

 

 街角で歌う男の、才能を。

 

 

 

『Occhi, vanni, furor, cuori, oh martoro! 』

 

 

 

 声量があるとは言えないが、艶やかな、どこか色気と甘さを含んだ男の声。

 

 

 ――逸材だ。

 

 

 マルチェロに許しを請うのも惜しがり、気が付くとライモンドは、黙ったまま声のする方へ猛然と駆け出していた。

 

 

 

 

 

 

 

『Amanti, e sposi Angelica, e Medoro―――・・・!』

 

 はぁ、はぁっ。

 息を切らしてライモンドが人ごみの中心に駆け込んだ時、その男は、宙に両腕を伸ばし、最後のセリフを叫んでいるところだった。

 主人公オルランドが恋い焦がれたアンジェリカに失恋し、発狂するシーン。悲痛で、かつ狂気じみたこの節を的確に表現するのは大変難しい。

 周囲から拍手が巻き起こる。ついで、彼の足元に小銭が投げ込まれるのを見て、ライモンドは悟った。こいつは決して狂人などではなく、どこかに宿を求めるための「即興的な」金稼ぎの手段として、凍える街角で歌っていたのだと。

 

 次に我に返った時、ライモンドは男の手首を掴んでいた。だが、何しろそれがとっさのことだったので、何を言うべきか全く考えておらず、ライモンドと男は、街灯の下、人気の引いた夜の中でただ見つめ合うしかなかった。

 

 イタリア人にしては珍しい、闇に溶けるような黒の髪に、青い瞳。長い前髪を左側で分け、右目を少し翳らせた特徴的な髪形の彼は、どこか高貴さを感じさせるような端正な顔立ちをしていた。

 

 

『おい、ライモンド。気に入ったのか?』

 

 声をかけてきたのは、後ろから追いついたらしいマルチェロだ。振り返って、ようやくライモンドは、自分が座員を置き去りにしてきてしまったことに気が付いた。

 

『あ・・すんません、つい』

 

『いや、いいんだ。お前は天才を見つける天才だからな』

 

 はっは、と大きく笑いながら、マルチェロが街灯の下の二人に近づく。

 

『やあ、いきなりすまんね。酒盛りの酔い覚ましがてら歩いて帰ってたところに歌が聞こえてきたんだ。―――人材発掘の天才のライモンドが君に惚れたらしい。どこかの劇団に所属してるのでなけりゃ、ウチに来ないかね』

 

 ざわり、と一団が湧く。オファーが流石早い、とライモンドは舌を巻く。だが、嬉しい。才能のある者と舞台に上がるのは、楽しいことだ。こいつなら、きっと最高の演技を見せてくれる。どこか、ライモンドは確信していた。

 どうだろう、とライモンドは男を振り返る。よく見れば顔にはまだあどけなさが残り、殆どライモンドと歳が変わらないように見えた。

 

 一瞬、男は躊躇う。それから少し目を伏せ、軽く両腕を開いて見せた。

 

『でも俺、この服だけで飛び出してきたんです。今のところ泊まる場所もないし』

 

 家出少年か。意外と事情が面倒そうだ。どうするのか、とライモンドはちらりと大男のマルチェロを見上げる。

 が、ライモンドの懸念を、マルチェロは破顔一笑に付した。

 

『ならばむしろ好都合だ。うちの劇団は制服付き。ちなみに住居も問題はない。一つ建物を持ってるんだ。皆そこに住む。旅回りの時は宿をとるがな。

 最近、一座に空き役が出てな。さっさとその補填をしなけりゃならなかったんだ。・・・しいて求める入団条件は一つ。明後日の公演で、主役級のをいきなりやれるかどうかだけ』

 

『主役級って・・・!俺に?氏素性も名乗ってないような俺を、いきなりスカウトした挙句主役級って・・・・』

 

 

 やっぱ困惑するよな、とライモンドは息を吐く。そりゃそうだ、しかも、おそらく彼は完全にこの劇団のやる演劇形式を誤解している。

 この一座のやる演目は、とライモンドが男に説明しようと口を開きかけると、マルチェロに手で遮られた。は?と見上げると、にっとマルチェロが笑う。

 

 分かった。もう、これが入団面接なのだ。ここで尻込みしてできない、というやつなど、いざ舞台に上がっても動くことさえできないに決まっている。

 特に、これから一座が彼に与えようとしている役は、劇中でも花形の花形、アクロバティックな動きさえ時々要求されるトリックスターだ。公演中に固まられて、話を台無しにされては困る―――“台本のない”演劇だからなおさらだ。相手のセリフに合わせて瞬時に笑いを取る才能、キャラクターの魅せ方、等々、要求されるものは非常に多い。

 

 さぁ、どうする。逃げるか? 進むか。あんたが選べよ、通りすがりの歌人さん。

 

 一同が見つめる中、男がゆっくりと顔を上げた。

 

『まぁ、セリフを覚えるのに明日は没頭しなくちゃならないだろうけど、それでもいいなら。』

 

 

 沈黙。の間に、湧き上がる歓び。合格だ、とマルチェロが笑う。え、マジで入れちゃいうのかよ、と、ジローラモが呟き、ずっと黙りっぱなしだった老齢のドナテッロが、フランカやクリスティーナに言わずに勝手に決めると怒るぞ、ぼそぼそ言った。

 

『神経質なドナテッロ、気にするな。二人とも色男には目がない』

 

 ばしばしとドナテッロの背中をはたきながら、豪快にマルチェロが笑う。そんな騒がしい状況に、おずおず、といった感じで、男が声をかけた。

 

『あの・・・そういえば、皆さんって誰なんですか?』

 

『あ、誰も言ってなかったっスね』

 

 誰も答える気が無さそうなので、とりあえずライモンドが応じると、まぁ自己紹介は明日だ、とマルチェロがすたすた歩き出してしまった。事が済み、もう帰る気らしい。

 

 新人の世話は俺がしろ、ってことか。

 

 溜息を吐きつつも、内心、悪い気分ではないライモンドである。

 

『ほら、行くぞ。今日からお前は、俺たち“銀の薔薇座”のトリックスター、アルレッキーノなんだから。せいぜい磨けよ』

『え、アルレッキーノって・・・・・ちょ、さっきのおっさん騙したね!?コメディア・デラルテの一座だなんて聞いてないよ!』

 

 少し馴れ馴れしいか、と思ったが、イタリア人のノリだ。男の肩をぐい、と抱き寄せ言うと、嘘だぁ、と男が言い返してくる。

 

『正しく言うとコメディア・デラルテと違って脚本は全部オリジナルだから、単なる即興劇団って感じだけどな。さっきのはお前の度胸試しの一環でもあるんだよ。セリフがないから、覚える手間が省けたじゃねえか』

『何言ってんの!脚本があるほうがよっぽど親切さ!』

 

 ああ、一杯喰わされた気分だ、と怒る男に、ライモンドはおかしくなって噴き出す。ここまで図々しい新人は初めてだ。

 一座の中では、ライモンドは最年少である。そのせいか、弟分というか、友達ができたような気分になって、ライモンドは嬉しくなっていた。

 

 

 

 ひとまず落ち着いて歩き出したところで、あ、と男が声を上げた。

 

『君、ライモンド、っていう名前だっけ。さっき俺を騙したおっさんが言ってたね』

『意外と執念深いんだな。――お前こそ、名前は?』

 

 呆れ交じりに笑いながら問い返すと、急に、男が歩みを止めた。どうした、と声をかけると、あ、ごめん、と駆け寄ってくる。

 

『うーん、名前は内緒。アルレッキーノでいいよ。これからの俺の名前なんでしょ?ていうか、役名だけど』

 

 くるり、と男――アルレッキーノが覗き込んでくる。愛嬌を魅せるのがとても上手い。だが、なんだろう。この、妙に陽気な薄暗さは。何かを、彼の背景に感じる。

 

 まぁ、

 

 聞いたところで答えないだろうな。

 ライモンドは観念する。まぁ、別にいいさ。仲良くなってから聞けばいい。

 

『俺はライモンド。ライモンド・マルケイ。下の名前でいい。どうせ年なんて大差ねぇだろ。で、お前がさっきからおっさん呼ばわりしてるのは、マルチェロ・グラッソ、銀の薔薇座の座長、つまり一番偉い人だ』

『うわ、嘘、じゃあ俺、なんかすごい失礼な口きいてたじゃんか!教えてくれればよかったのに』

『言おうと思ったけど、マルチェロに止められた』

『マジで試されてたわけか』

 

 慌てた素振りを見せるあたり、存外素直である。好感を持った。

 

『そう言えばお前、即興喜劇の基礎は分かってるらしいな』

『ああ、うん。俺ね、演劇ってもの自体が好きでさ。趣味で本読んだりしてたから、ある程度は分かるんだ』

 全部借り物の本だったけどね、と、アルレッキーノが自嘲的に笑う。あまり触れられたくないのだろう。

『でもまぁ、まさか自分が演じる側に回れるとは思ってなかったや。―――そうだ、ねぇライモンド、君は何の役をしてるの?』

『俺はカタピーノ。マルチェロはパンタローネ。一人、やけに口と人相の悪い男居たろ?あいつはジローラモ、お前の、舞台上での相棒だ』

『というと、ブリゲッラか』

『ぴったりだろ?金銭欲と性欲の塊』

『新人の俺が肯定しちゃいけないな』

『遠慮すんな、単に威張りたいだけなんだよアイツは』

 

 正直、あまりジローラモのことを良く思っていないライモンドである。悪態をつくと、からりとアルレッキーノが笑った。

 

『あはは、ここでならやっていけそうだ』

 

 ぴくり、と、その言葉に引っかかる。

 

『以前のところじゃ、上手くいってなかったって事か?』

『・・・・っ、・・忘れて』

 

 問い返せばほら、再び目を伏せる。

 あー、分かんねぇ。

 元来、ごちゃごちゃとものを考えるのは苦手だ。少しどもってから、ま、とライモンドはアルレッキーノの背中をぽん、と叩く。

 

『とりあえず、ここの劇団は良くも悪くも自由だ。舞台でだって、話が破綻しない程度なら何したっていい。お前のやりたいようにやりゃあいいんだよ。俺だってそうしてる』

 

 後半はなんだか照れくさくなって、早口になってしまった。頭をがしがし掻きながらちらりと隣のアルレッキーノを見ると、うん、と小さくうなずいてから、アルレッキーノが顔を上げた。

 

『ライモンド、Grazie.』

『おうよ』

 

 そう向けられたのは、儚げな、笑顔だった。

 

 

 

 

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