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​夢 (前)

テオドールとヨハンがとうとう過去をめぐって衝突する話。兼、ローゼンベルグ兄弟が何故孤児院に来たのか、という話。多分続きます。

 安酒のきついアルコールの匂い。転がる瓶。冷たい床。吹っ飛ばされて頭を打って、何か流れてきた。僕は、それに触る。とても、赤い、液体。

 ああ、駄目。父さん、弟に、弟に触らないで。殴るならどうか僕を。ああ、駄目、駄目、その手、振り上げて、どうするの、ねぇ、父さん。母さんみたいに、僕を殴るのはいいから、お願いだから、まだ、2歳なんだから。

 願いが、消えていく。父さんの手が、ゆっくりと振り下ろされる。―――否、ゆっくりと振り下ろされたように見えただけなのかもしれない。まだ赤子と呼んでも差し支えないほど小さい弟が、床に、叩きつけられ、悲鳴が、泣き声が、冷たい空間にこだまする。

 ああ、僕は、決して弟には手を出させないと、心に誓ったのに。母さんはもう心が死んだようだった。僕も、多分心は死んでいた。ああ、そうだ。全部全部、麻痺していて。ただ弟を守らねばと、壊れた母さんの代わりに僕が弟を守らねば、と、それだけを胸に、生きがいに、このまさに生き地獄と呼べるような絶望の中を、生きてきたというのに。

 父さんが、弟の細い首に手を掛けた。片手で握りつぶせそうなほど、まだ細い首。小さい手が、モミジのような手が、必死で宙を掻く。守ると決めたはずの弟が、いま、僕の目の前で、命を落とそうとしている。

 まだ、2年しか生きていない弟が。僕の、目の前で。ああ、父さん、ねぇ、父さん。僕は、僕は、どうしても、弟を守りたいんだ。だから、貴方は、貴方は、貴方は―――――

 

 

『ヨハンから手を離せ――――――――ッ!!!!!!』

 

 

 あなたは、死ぬべきなんだ。

 

 

 頭の中が白く焼き尽くされる。網膜を灼くほどの、白。映るのは、酒で澱んだ父さんの目が見開かれる姿だけ。僕は、使われなくなって久しい包丁を、振り上げている。

 

 

 振り下ろす。

 

 

 刃は、首を捉えた。そして、的確に奥深くの動脈を裂いた。

 絶命しながら、父さんはこちらを見ながら何か口走っていた。何を言ったかは聞こえなかったから、弟の上に倒れ込まないように、僕は座り込んだ父さんを横から蹴り倒した。

 弟が、こちらを見上げている。下手くそにせき込んで。小さな体を丸めて。血の海のなかで、弟が生きている。

 

 ああ、僕は、弟を守れたんだ。

 

 ふと、視線を感じて、振り返った。戸口から、母さんが、化け物を見るような目でこちらを見ていた。

 いっぱい、見られている。父さんだった死体も、目を剥いてこちらを見ている。

 僕は、どこを見ようか。手を、見ようか。包丁を握った左手を。血に塗れた左手を。

 

 あなたも、楽にしてあげるよ。

 

 母さん。

 

 僕は、確かにその時笑っていた。ほら、あの悪逆非道な男は死んだんだよ。だから次は貴女。もう辛いでしょう。壊れた世界で生きるのは。全部なかったことにしてあげるから、ねぇ、母さん。そんな顔しないで。大丈夫、僕はこれからも絶対に弟を守るから。だから貴女は、貴女は、貴女は――――――

 

 

『お疲れ様、母さん』

 

 

 

 頭から流れる血とは何か別のものが、流れた気がした。透明な何か。何だろうね。

 

 

 

 ガレージに行って、ガソリンを取ってきた。家じゅうくまなく撒いて、最後は新聞紙を丸めて山を作り、そこに掛ける。父さんと母さんにもたくさん掛けた。人間は燃えにくいと、言うから。

 導火線のように、家の裏口をゴールにしてツンとした匂いの液体を撒き終えた。最後に、呆然と絨毯の上に転がっていた弟を、抱き上げて裏口から外に連れ出す。

 靴下を履かせ、靴を履かせ。僕も靴下を履いて、靴を履いた。さようなら、僕の家。さようなら、父さん母さん。ただ一つ手に持ち合わせているのは、アンティークのライター。自然と、ある本のある一節が、口から零れ落ちた。

 

『“あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。”』

 

 ライターの火は、明るかった。星の出ている夜、闇の中で僕と弟だけを照らした。

 

『“そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである”』

 

 お兄ちゃん、と弟が小さく呟いた。ああ、分かってるよ、ヨハン。

 

『しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。』

 

 ささやかな、葬式を。祝福の炎を。

 

『あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。』

 

 聞き逃してはならない。拒んではならない。僕は、貴方たちを送る。導くのだ。

 

『このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。』

 

 火の熱さ。ライターを、ガソリンに浸った新聞紙の山に放り込んだ。

 

 

『“わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。”』

 

 

 

 爆発。爆風。喉が焼けた。弟の頭を胸に抱きしめ、僕は火柱を上げた家に背を向けて歩き出す。人生などどうでもよかった。法、罪、そんなもので裁けるようなものではないのだと、手を握りしめた。

 黒紫色の髪。マゼンタの瞳。生き写しのように僕にそっくりな弟を、必ず守り抜こう。そのためならば、現の法などいくらでも覆してやる。何も持たずに弟だけを抱き、ひたすら歩いた。そして、やがて12歳の僕は、道に倒れた。

 

 重くのしかかる、死という現実。

 

『裁き・・・・まだ、死ねないのに』

 

 幼い弟を、抱き締めた。

 

 目を、閉じた。

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